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《吉田松陰と妹たち2》 [吉田松陰と兄・弟・妹たち]

《吉田松陰と妹たち2》

さていよいよNHK大河ドラマのヒロイン杉 文(フミ)の登場です。




杉 文(→美和子と改名)





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http://bakumatsu.org/photos/view/441





1845年(弘化2年)杉家の四女として誕生します。
松陰とは15歳の年齢差があります。
「文」という名の由来ですが、叔父の玉木文之進が文を可愛がる
あまり自分の名前の一字をとって「文」と名付けられました。




松陰は門下生の中でとりわけ久坂玄瑞がお気に入りで妹の文を玄瑞
に嫁がせます。
この時、文15歳。
今でいえば中3くらいですね。
昔の結婚はとにかく早かったんですね。
今時の晩婚化なんてあり得ない時代ですね。




国事に奔走する玄瑞は留守がちで、寂しい思いをしているであろう文に
21通あまりの手紙を書き送っています。





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http://www.yoshida-shoin.com/monka/kusaka.html





1864年(元治元年)禁門の変で玄瑞が自刃して亡くなってしまいます。
わずか7年の結婚生活でした。




22歳の若さで未亡人となった久坂家の復興に努めたり、一時召されて
藩主の幼君・毛利元昭(モトアキ)の守役を務めたりしました。
この時、名を文から美和子に改めています。





1881年(明治14年)楫取素彦(カトリモトヒコ)に嫁いでいた姉の寿(ヒサ)が
病死します。
その2年後、母・滝の強い勧めで美和子は楫取の後添えのなります。
この時美和子40歳。
当時、楫取は群馬県令として多忙を極めていました。





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再婚に際し、美和子は一つの条件を出しています。
それは元の夫・久坂玄瑞からの21通の手紙を持っていく、ということでした。




楫取素彦は快く承諾したのみでなく、その手紙に『涙袖帖』という名を
つけてくれました。「るいしゅうちょう」と読みます。
夫・玄瑞からの手紙だけを頼りに、涙で袖を濡らしながら淋しい思いに
堪えてきたんだね・・・大事にしなさい。
という楫取の美和子を思いやる優しさが感じられますね。




美和子は久坂玄瑞からの手紙を生涯大切に持っていました。





楫取素彦は松陰がもっとも信頼する人物の一人でした。
富岡製糸場の存続にも貢献しています。



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http://gipj.net/news/n140630/






美和子1921年(大正10年)79歳で没します。





NHK大河ドラマでは井上真央さんが文の役を務めます。



《吉田松陰と妹たち1》 [吉田松陰と兄・弟・妹たち]

《吉田松陰と妹たち1》




吉田松陰には4人の妹がいました。




2歳年下の千代(後に芳子ヨシコと改名)
9歳年下の寿(ヒサ)
三番目の妹・艶(ツヤ)が生まれていますが夭逝(ようせい)しています。
15歳年下の妹・文(フミ、後に美和子と改名)




この文(フミ)がNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインとなりますよ。
井上真央さんが主役を務めます。





杉 千代




1832年(天保3年)杉家の長女として生まれます。




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松陰と兄・梅太郎(民治)と長女の千代は年齢が近かったせいもあり、たいへん
仲が良かったそうです。




千代は杉家が経済的に貧しい時代、二人の兄とともに両親を手伝いながら妹たちや弟・
敏三郎の面倒もみていました。
4歳ころにはすでに母・滝の手伝いを始めていたそうな。




長じるに従い台所仕事や裁縫、洗濯などを覚え一日中忙しく家の手伝いに精を出して
いたそうです。




感心ですよね。




とにかく杉家は皆が協力して貧乏な生活の中でもどうにか遣り繰りして
頑張ります。
この家族は一人一人が優しく寛大でおおらかな空気を持っています。




父の百合之助が官に就き家族と離れて萩城下の住むことになったさいには
2年間父に従い家事など身の回りの世話をやり遂げました。
千代が12歳から14歳までのことでした。
今でいえば小学校6年から中1くらいの年齢ですかね。




後に同じ松本村に住む藩士・児玉初之進に嫁ぎ二男三女に恵まれました。




千代は松陰からの手紙を大事に保存していてくれました。
現代の私たちが人間松陰に触れることができるのは千代のお蔭ですね。




この千代、そうとうに腹の座った女性だったようです。




なにせ叔父・玉木文之進の切腹に際して頼まれて介錯を務めています。
千代40歳の時のことです。




首を一刀のもとに切り落とすんですよ。
よほどの精神の持ち主でないと実行不可能ですよね。
この場面をじっくり想像してみてください。
すごすぎますよ。




後年、雑誌『婦人の友』『日本及日本人』に松陰の思い出を語り残して
います。




1924年(大正13年)93歳で没します。






杉 寿(ヒサ)




1839年(天保10年)杉家の次女として誕生します。
松陰には9歳年下の妹でした。




15歳の時、藩の儒官である小田村伊之助(オダムライノスケ)に嫁ぎます。
小田村伊之助は後の楫取素彦(カトリモトヒコ)デス。




※儒官とは儒学をもって公務についている者。また、公の機関で
 儒学を教授する者。

※儒学とは中国古代の儒家思想を基本にした学問。
 孔子の唱えた倫理政治規範を体系化し、四書五経の経典を備え、
 長く中国におけるが鬼門の中心となった。
 自己の倫理的修養による人格育成から最高道徳である「仁」へ
 の到達を目指し、また、礼楽刑政を講じて経国済民の道を説く。
 後に朱子学・陽明学として展開されてゆく。
 日本には4、5世紀頃に「論語」が伝来したと伝えられ、日本
 文化に多大な影響を与えた。

以上はデジタル大辞泉より引用させていただきました。




松陰や民治もその初等教育において四書五経を徹底的に暗唱させられます。
武士の基本的必修科目だったのですね。




さてこの寿、姉妹の中では一番の美人であったようです。
やや見ずらいですが、写真をよく見ると確かにスラリとしたやや長身の美人
に見えますね。




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https://sites.google.com/site/hagijinbutsu/list/10...




またかなり気丈な性格もあったようで、夫が藩内政争の末に野山獄
に入れられるとわざわざ夜中にそっと獄を訪れ夫に差し入れなどを
やってのけています。




明治の世となると群馬県令となった夫・楫取素彦を支えます。




また母・滝の影響を受け浄土真宗の熱心な信者でもあった寿は
群馬県下で熱心に布教活動を行っています。




1881年(明治14年)43歳の若さで没しています。




NHK大河ドラマ「花燃ゆ」では優香さんに配役されています。







《吉田松陰と兄・弟》 [吉田松陰と兄・弟・妹たち]

《吉田松陰と兄・弟》



吉田松陰と兄・杉民治




吉田松陰の兄・杉民治は杉百合之助長男で通称を梅太郎といいます。
民治という名は民政に尽くした功績により藩主から与えられたものです。



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1828年(文政11年)に生まれ1910年(明治43年)に没しています。
83歳まで生きられました。



幼少期は弟・松陰とともに父・百合之助と叔父の玉木文之進から学問を
叩き込まれました。後に藩校・明倫館に学びます。



情熱の人であった松陰に比べ、兄の民治はずいぶんと冷静でおとなしい性格だったようです。



兄・民治と弟・松陰は他人がうらやむほどに仲のよい兄弟でいつも一緒にご飯を食べ、同じ
ふとんで寝ていました。



1860年(万延元年マンエンガンネン)、32歳の時に父の隠居に伴い杉家の家督を相続します。
官に就いては民政家としての実力を発揮していきます。



目立たないですが松陰の最も良き理解者であり協力者でありました。
松陰が罪を得る度に連座して免職の憂き目に遭いながらも常に物心両面で弟・松陰を
支え続けます。



松陰が罪人として帰ってきても何も言わず温かく迎えます。



1876年(明治9年)に松下村塾を再興し子弟の教育にあたりました。
晩年には各地から松下村塾を見学に来る学生たちを案内するのが楽しみだったとのことです。






吉田松陰と弟・杉敏三郎




1845年(弘化2年)杉家の三男として生まれます。
松陰とは15歳下になります。


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敏三郎は生まれながらの聾唖者(ろうあしゃ)でした。
聾唖者というのは耳が聞こえず、発声もできない人のことです。




松陰が兄・民治から可愛がられたように松陰はもまた弟の敏三郎を慈しみます。
容姿が松陰によく似ていたそうです。
知能もなかなか優れていたそうで、書道と読書が好きだったとのことです。




松陰は現実主義者でおよそ神頼みのようなことは一切しない人でしたが、
九州遊学の途中、熊本を訪れた際に深夜、加藤清正の廟所(びょうしょ)に詣でて
弟の耳を治してほしい、と願掛けを行っています。 例外中の例外の行為でした。




安政の大獄で江戸に召喚された松陰に松下村塾の門人らと共に寄せ書きを送っています。
そこに敏三郎は「悔(カイ))の1文字を記して兄との別離に涙したと伝わっています。



愛する兄を失った敏三郎の心はどんなにかやるせないものだったことでしょう。




1876年(明治9年)32歳で病没されています。



吉田松陰の人生略歴7《松陰の人格形成4》 [吉田松陰の人生略歴]

吉田松陰の人生略歴7《松陰の人格形成4》




この項では前回に引き続き松陰の人格形成に影響を及ぼした長州藩の政情の変遷に
ついて書いてみます。




第13代藩主となった毛利敬親(タカチカ)は藩の財政改革のため他藩にまで聞こえた
村田清風を執政に起用します。




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http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/gyosei/bunka-s/ish...





清風は貯まりに貯まった借金財政に対して、その徹底した合理主義で、産業を興し、
節約に努め、官有林の払下げを行うなどなど、あらゆる方法を使ってついに数年で
整理してしまいます。




その他に藩政改革、藩学振興、士風刷新のリーダーシップを取り、下からの意見を
積極的に受け入れるなど藩政に新しい風を吹き込んでいきます。




しかし急激な改革というのはいつの時代でも反発を呼ぶものです。
締めに締めたたずなを緩める段階に差し掛かるとおおぜいの恨みを買って失脚して
しまいます。




代って起用されたのが坪井九右衛門で清風の藩革事業のほとんどをもとのもくあみ
にしてしまいます。




やがて坪井の保守政治が停滞すると、清風系統の革新陣営から革新官僚が出て
藩政を再改革します。




そしてまた坪井派による政治に戻るを繰り返していきます。





自然、長州藩は村田清風の革新党と坪井九右衛門の保守党の対立と政権交代を 重ねていき、幕末にあっては村田清風を祖とする革新党が倒幕派になり、 坪井九右衛門を祖とする保守党が佐幕派になっていきます。





他の藩においてはこのような藩政の目まぐるしい変化はめったにあるものではなく
政治の能動性が培われていた点をみても他藩に先駆けて封建制度打破の起爆剤と
なる下地ができていたのです。




また村田清風は国防論者でもあり「かならず洋夷(ようい)が日本を侵しに来る」 と常日頃から説いてまわり、説くだけでなく兵制改革や士風刷新の重点をそこに おき、藩内に危機意識をあおり続けました。




幕末、長州藩が過度なばかりの危機感にかられ、暴走につぐ暴走を重ねていく源は
この清風の藩作りにあったんですね。




1855年(安政2年)ペリー来航の2年後に病没。
清風の予言通り洋夷がやって来ました。




清風により国防意識を植え付けられた長州藩はやがて攘夷運動の先頭を走ることに
なっていきます。




もちろん松陰も国防論に強烈な影響を受けたことでしょう。
また彼の教育にも当たった山田右衛門からも聞かされていたのですから同じ勉学に
励むにせよその緊張感はかなりのものだったのではないでしょうか?





何はともあれ長州藩が倒幕派となっていく下地は清風によって培われたのでした。







吉田松陰の人生略歴6《松陰の人格形成3》 [吉田松陰の人生略歴]

吉田松陰の人生略歴6《松陰の人格形成3》




この項では吉田松陰が育った長州藩という、いわば土台について書いて
みたいと思います。




長州藩の藩主は毛利氏ですね。

毛利氏といえば戦国時代においては安芸の国(広島)を根拠地に、山陽・
山陰の十一カ国を版図として中国地方に威を振るった大大名でした。

関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗れて後、徳川幕府によって長門(ながと)・
周防(すおう)の2カ国(今の山口県)に押し込められ、中大名に格下げとなりました。

以来300年間、ひたすら幕府を怖れ、ひたすら事なかれ主義で過ごす「ただの
大名」になり下がりました。




しかし、その「ただの大名」であった毛利長州藩が幕末にいたり再び歴史の
舞台に躍り上がり、最大の革命勢力となり、ついには徳川幕府を倒し、
封建制度を突き崩して日本に新しい時代を招き寄せる主導勢力になります。




毛利長州藩あっての吉田松陰であり、高杉晋作であり、久坂玄瑞であり、
その他多くの志士が志士で有り得たと考えられるのですが、彼らの下地になっている
毛利長州藩の政治風土はどのようなものであったかを知ることもタメになると
思います。




松陰7歳の時(天保8年)に毛利慶親(よしちか)が藩主となる。 後に敬親(たかちか)と名乗ります。




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敬親が藩主に就任した当時、長州藩の財政は大変な大赤字状態で、企業であれば
とっくに倒産状態でした。




そこで敬親は財政立て直しのため村田清風という人物を起用して自由に藩政改革、藩学振興、士風刷新の新政治を行わせています。





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村田清風は破綻寸前の藩財政を立て直すなど辣腕を振るっていきます。
また身分にこだわらず藩政に関する意見を積極的に受け入れたりもしました。
封建制度にあっては考えられない柔軟さです。




こうした風通しが良く日当たりのよい政治環境に松陰の成長期がたまたま 遭遇していました。




松陰が成人していく過程でこのように藩政が今までのような沈滞したものから
活気と可能性に満ちた時代に遭遇しています。




松陰という青年は惨憺(さんたん)たる苦難にあいながらも常に明るく、楽天的で、
死の直前まで絶望ということを知らなかった。
幕府でさえ話せば分かり合えるであろうという,甘いというか、人の良さ
が心のどこかに沈着していました。
ただ、そういう楽天性が百の挫折にも撓む(たわむ)ことがない松陰を
作る一因にもなっていたと考えられます。




この不思議な性格はこの時期の藩風が大いに影響しているということです。




さて13代長州藩藩主・毛利敬親(タカチカ)に起用された村田清風は思い
通りの藩政改革・藩学振興・士風刷新の新らしい政治を行っていきます。
藩命として幼少の松陰に玉木文之進はじめ優秀な官命教授を次々に付けて
英才教育をおこなわしめたのも清風でした。




松陰は九州遊学を行った後、引き続き江戸留学の願いを出して、結局、
認められています。




簡単に九州遊学と言いますが、他藩を訪ね歩くということはこの時代
そう簡単なことではありませんでした。




日本はこの時代、鎖国をしていましたね。
外国との関係だけで鎖国を認識しがちですが、基本的に藩士が他藩へ
出入りすることもご法度(ごはっと)の時代だったんです。
つまり基本的に藩単位で鎖国体制にあったんですね。
許可なく藩を出てしまうことは「脱藩」といって重罪でした。
それ程に藩外への出向にはどの藩も神経質な体質を持っていたのです。




松陰が自己の勉学向上の為九州遊学を申し出ると難なく許可が下ります。
九州遊学から帰るやいなや江戸留学の希望を申し出るとこれまた難なく
許可が下ります。
江戸遊学については藩主のお伴という名目でしたが、先行して自由に地理
を見聞させてほしいと申し出るとこれまた快く許可されてしまいます。




松陰には藩はかなり甘かったんですね。
またそれだけの期待もあり甘やかしたんでしょうか。




基本的にこの藩は学才があり、才気に富む若者を大事にするというか 一種甘やかす顔を持っています。




藩自体の特徴として勉強好きで、何事にも理由付け、理論づけ、理屈付けを
することがやたらに目立つ藩でした。
それは藩士一人一人にも共通していたことのようでした。
また、地理的に江戸と離れているせいか学問や知識を江戸で吸収することに
貪欲でもあった藩です。
知識欲の点では並み大抵ではなかったことは事実です。
江戸近郊の諸藩などそういう点では眠っているも同然の状態でしたが。





文武修行のためならその筋の役人らは松陰のために好意的に事を運んで
くれました。
こういう点での世間的な苦労の必要のなかったことが松陰をして人を
疑うことを知らない明るい人間性を醸成した一因かも知れません。




江戸留学中に松陰は親友2人と東北遊学を計画します。
藩江戸屋敷の役人にも許可を得ますが、過書手形の発行が出発の約束の期日
までに間に合わないことになります。
ここで松陰はなんと藩に無断で出発してしまいます。
友人との約束を守るためでした。




これは立派な脱藩行為です。




江戸に戻った松陰は藩江戸屋敷に出頭します。
そして脱藩を犯した罪人として萩に送り返されます。




藩は松陰に対して正式な処罰が下る間での間「親類あずけ」の処置を下します。
正式な通知が下ります。
「士籍はく奪」「家禄没収」という重い処分でした。




この時の執政は村田清風ではなく、坪井九右衛門という清風とは真逆の反動
政治家でした。




もしこの時も清風が執政であったならここまで思い処分は無かったことでしょう。




ところでこの重い処断にも救済策が用意されていました。




「実父杉百合之助の育(はぐくみ)とする」というものです。
「育(はぐくみ)」というのは長州藩独自の制度で、公式の居候、公式の被保護者
という意味合いのものです。
これにより松陰は完全なる浪人にはならずに済んでいます。
またあろうことか松陰の才を惜しむ藩主の温情により「むこう十年の修行」という
名目で自由に研鑽に励む時間を与えられます。




藩といい藩主といい才ある若者には寛容なのです。





次に松陰が藩と関わりをもつのがアメリカ密航事件の後、藩へ送り返されてから
のことになります。




幕命による松陰への刑は「自宅で蟄居(ちっきょ)させよ」というものでしたが、
ですが藩はあえて松陰を獄に入れます。野山獄という侍専用の獄です。
これは幕府に対しての恐れから行ったものでした。
まだ幕府というものがこわかったんですね。
後に病気療養を理由に松陰を実家の杉家に蟄居させますが。





何とも言えないところですが、他藩であれば国禁を犯した重罪人ということで
死罪もあったのかも知れませんね。





長州藩にすれば最初は藩法を犯した・・・「うん、けしからんぞ」という気分だった
と思います。

次は国としての法を犯して返されてきた。・・・「幕府の都合で罪を問われ送り返され
てきたのか。可愛そうに。しょうがないなぁ」という気分だったと思います。

表面上は幕府に対しては恐れ入ってはいるのですが、内実は藩の者で幕府の法を犯した
者が出ると内々でいたわり、その志を憐れむという気分を誰もが持っていたようです。
関ヶ原で敗れ、国を縮小され、300年の間、藩として「おのれ徳川」の気分が微かに
伝わり続けていたのではないでしょうか。




とにかくここでも藩は松陰にむごい仕打ちはしていません。




最後に長州藩が松陰と幕府に関わることがありました。




時は安政の大獄の嵐の吹きすさぶ中、松陰が幕府の命令により江戸へ護送され、
梅田雲浜(ウンビン)との談合密議と御所の庭に落ちていた落文(おとしぶみ)の件で
幕府評定所での尋問の当日、長州藩は松陰に対して最後のやさしさを見せています。




囚人籠を護送する人数として士分の者三人、足軽中間が三十人、先頭には騎馬武士が一騎。
この仰々しい行列を見せつけることで、いかに松陰が藩にとって大切な人物であるかを
幕府にアピールする目的でした。
ここまですれば幕府としても長州藩に遠慮も入り、松陰の罪が軽くなるやも知れない、
という期待があったのです。
何とかして松陰を守りたかったんでしょうね。




以上が直接松陰に対する藩の対応の概略ですが、松陰に対しいかに理解があり、
優しく寛容であったかが伺えますね。





さて村田清風とその後の藩の政治体制の変遷についても理解しておくと松陰に対する
理解と久坂玄瑞や高杉晋作といった若者の台頭の下地というか根拠が深く理解できて
よろしいかと思います。





長くなりましたので次の項で続けたいと思います。
脇道に入ると更に長くなるのでピンポイントで絞って書いてみました。



ご精読ありがとうございます。

吉田松陰の人生略歴5《松陰の人格形成2》 [吉田松陰の人生略歴]

吉田松陰の人生略歴5《松陰の人格形成2》



吉田松陰の言動・思想には私利私欲というものが一切
ありませんでした。



こういう人間性は誰がどうやって松陰に植え付けたので
しょうか?



答えは叔父・玉木文之進の教育にありました。



ある意味松陰を松陰たらしめたのは玉木文之進なのです。



玉木文之進は松陰の父・杉百合之助の2番目の弟で玉木家
に養子に出されていた人です。



因みに松陰の養父となる山鹿流軍学師範の吉田大助は杉
百合之助の1番目の弟で、代々山鹿流軍学師範吉田家に
養子に出されていた人です。
よほど優秀な方だったのでしょうね。



昔は家名存続のためこういう事が頻繁に行われていたんで
すね。



松陰が吉田家に仮養子になったのが5歳の時で、翌年養父の
大助が病気で亡くなってしまいます。



藩としては山鹿流軍学を存続させるため、松陰に吉田家の
家督を継がせます。

松陰は5歳にして吉田家の当主となり、また山鹿流軍学師範
の後継者が義務付けられました。



藩命により玉木文之進と故吉田大助の高弟たちが松陰のいわ
ば家庭教師に任命されます。



松陰に主に接したのが玉木文之進でした。



5歳~18歳までの間、文之進は徹底したスパルタ教育を行い
ます。



文之進は松陰12歳の時、1842年(天保13年)に松下村塾を開いて
近所の子供たちの教育を無償で行います。
これが松下村塾の始まりです。



1843年(天保14年)文之進が藩の役職につくと吉田大助の弟子
であった山田宇右衛門(ヤマダ ウエモン)が13歳から18歳までの松陰の
教育を手伝いますが、メインは玉木文之進でした。



この山田右衛門、松陰が14歳の時、「日本は滅びるぞ」と、松陰に
危機意識を植え付けた人でした。



山田右衛門は百石取りの上士で、江戸で見聞してきた日本をめぐる
国債情報を松陰に与え、おおきな影響を与えました。



松陰は後に九州遊学の時、アヘン戦争の実態やヨーロッパ列強の
アジア進出についてがむしゃらに学んできます。



当初、文之進による松陰への個人授業もやはり畑のあぜ道で
行なわれました。



後に文之進の松下村塾ができたり、藩校・明倫館に通うように
なるまでは野天での学習だったのでしょう。



ひたすら暗唱・読解の日々だったのではないでしょうか。



村を出て官についた文之進はしだいに民政家としての手腕を藩
に認められ、やがて数郡を宰領する地方官になり、さらに抜擢
されて藩の重役にまで上ります。



そういえば松陰の兄の梅太郎も後に民政家としての実力を発揮
して藩主から「民治」という名を頂戴しています。



兄の民治もやはり父と文之進から学問を叩き込まれています。



さて松陰に対する文之進の教育は現代では考えられない程の
想像を絶するものでした。



松陰は将来の山鹿流軍学を背負って立つ人間です。



背負って立つことのできる人間に育てなければなりません。



その凄まじさの数例を司馬遼太郎は小説「世に棲む日々(一)」
の中でこのように紹介しています。



以下、抜粋。



文之進は謹直そのものの男だが、ときどき、魔王のように荒れた。

鍬(すき)をすて、「寅、おごったか」と、飛びあがるなり

松陰をなぐりたおすことがしばしばであり、殴られながら松陰

にはなんのことやら理由がわからない。

起き上がると、根掘り葉掘りその理由を説明する。

それがまた、ささいなことばかりであった。

書物の開き方がぞんざいであったとか、両手で書物を掲げ、手を

まっすぐにあげて朗読せねばならぬところを、ひじがゆるんでいた

とか、そういう形の上でのことが多い。

「かたちは、心である」と文之進はよく言った。

形式から精神に入るという教育思想の熱狂的な信奉者がこの玉木

文之進であったのであろう。






ある夏のことである。

その日格別に暑く、野は燃えるようであった。

暑い日は松陰は大きな百姓笠をかぶらされた。

この日もそうであったが、しかし暑さで顔中が汗で濡れ、その汗の

ねばりに蠅がたかってたまらなくかゆかった。

松陰はつい手をあげて掻いた。

これが文之進の目にとまった。

折檻がはじまった。

この日の折檻はとくにすさまじく、「それでも侍の子か」と声を

あげるなり松陰をなぐりたおし、起き上がるとまたなぐり、ついに

庭の前の崖へむかってつきとばした。

松陰は崖からころがりおち、切り株に横腹を打って気絶した。

(死んだ)と、母親のお滝は思った。

お滝はたまたまこの不幸な現場をみていたのである。







玉木文之進は兵学のほか、経書や歴史、馬術、剣術もおしえる。

しかしそういう学問や技術よりも、「侍とはなにか」ということを

力まかせにこの幼い者にたたきこんでゆくというのが、かれの

教育方針であるらしかった。

玉木文之進によれば、侍の定義は公(おおやけ)のためにつくすもの であるという以外にない、ということが持説であり、極端に私情を

排した。

学問を学ぶことは公のためにつくす自分をつくるためであり、そのため

読書中に頬のかゆさを掻くということすら私情である、というのである。

「痒みは私(わたくし)。掻くことは私の満足。それをゆるせば

長じて人の世に出たとき私利私欲をはかる人間になる。だからなぐるのだ」

という。

肉体を殴りつけることによって恐怖させ、そういう人間の本然の情(つ まり私利私欲)を幼いうちからつみとるか封じこんでしまおう、という のがかれのやりかたであった。






「侍は作るものだ。生まれるものではない」という意味のことを

玉木文之進はたえずいった。

松陰は五歳から十八歳までのあいだ、このような家庭教師から教育

をうけた。






以上、抜粋でした。





どうですか?

今でいえばまだ幼稚園児とか小学校低学年といったところでしょうに。

幼少期に徹底的に叩き込まれた”公人”としての意識が松陰の思考と
言動の全てに影響を与えることになります。

現代心理学的にいうなら潜在意識に刷り込まれた”公人”の意識が生涯
を通じて松陰を支配していくことになります。

ま、とにかく厳しい!




ここで終わると玉木文之進はただただ鬼のような男、ということになって
しまいます。



実は大変に優しい人格の持ち主なんです。



松陰や塾生が病気でもしようものなら、オロオロといてもたまらず心配
するような人で、年に数度しかない休日には塾生達と無邪気に遊び戯れ
て、皆を笑わせて回るようなこっけいな面も持ち合わせています。



官に就き、村々の現状調査を行った時などは、あまりに悲惨な状況にある
お百姓に涙を流したりもしました。
そして民政の改革の実をあげていったのです。
藩主からお褒めの言葉と特別手当のような臨時収入があると貧しい農民の
ために全て使ったりしています。



彼自身まぎれもない”公人”だったのです。



明治の世となり官を辞した後、萩で再び塾を主宰して子弟の教育に尽くす
のですが、1876年(明治9年)不平士族の反乱「萩の乱」が起き、この乱に
多くの門人が参加していることを知り、責任を感じるや先祖の墓前で切腹
して果てます。



この時、介錯したのは杉家の長女・千代(この時40歳、すでに芳子ヨシコと
改名しています)。
叔父の気性を知り尽くしている千代は止めることをあきらめ、見事、介錯
を果たします。




武士の娘・妻というもの、いや”武士の世界”の凄まじさを戦慄をもって
うかがわせるエピソードです。

いや、凄すぎ(すごすぎ)です。

皆さん、どうお感じになりますか?

  


私はこの玉木文之進という人物が大好きです。
あなたもきっと好きになられたことだろうと思います。




次回は吉田松陰の人格形成に影響を及ぼしたはずの長州藩そのものを
取り上げてみたいと思います。

長州藩の特徴とか、なぜ幕末になって火の玉のように暴走したのか・・・
等々書いてみたいと思います。



吉田松陰の人生略歴4《松陰の人格形成1》 [吉田松陰の人生略歴]

吉田松陰の人生略歴4《松陰の人格形成1》



前項で吉田松陰の性格について記述してみましたが、
あの清廉潔白、明るさ、勤勉・誠実さ、優しさはどこ
からきているのでしょうか。




この項では松陰の人間形成に影響を与えた人物について
ご紹介します。




両親<父・杉百合之助><母・滝>



<父・百合之助>



吉田松陰が生まれた杉家というのは貧しい生活ながらも
書籍が溢れ返っているような家でした。


父・百合之助(ユリノスケ)も無類の読書家であったようです。


たとえ無役であっても武士というものはお召しがあった時に
即働けるように日頃から教養の研鑽を怠らないものだった
ようですね。


百合之助は松陰と兄の梅太郎(後に民治ミンジ)に畑仕事を
しながら武士としての初等教育を行います。


教育の場はなんと畑のあぜ道でした。


早朝、父に従い馬のための秣(まぐさ)を刈り取りから
帰ると朝食で、その後、畑へ行き、あぜ道に正座して
四書五経の素読を始めます。


百合之助は畑仕事の途中で子供たちのもとにやってきては
必要なくだりを教え、また畑仕事に戻る、を終日何度とな
く繰り返します。


これを毎日繰り返します。


兄弟の初等教育はすべて畑で行われ、一度たりとも机の上
で行われたことはありませんでした。


半士半農の武士の家はだいたいこのようであったそうです。


なんだか目に浮かぶようですね。


袴(はかま)をはいた前髪の小さな武士の子供があぜ道に
きちんと正座して本をまっすぐに持って大きな声で素読する姿。


この生活の規律性こそが武士なんでしょうね。


この百合之助は熱心な勤王家で皇室の衰えを嘆いていたそう
です。


この父の皇室を大切に思う気持ちはおそらく少年松陰に大きな
思想的影響を与えていたかも知れません。


百合之助は性格きわめて厳格。
笑顔などめったに見せない人でしたが、昔の武士というのは
大体そういうものでした。


松陰のためにいろいろ面倒なことになっても常に松陰のよき
理解者でもありました。


NHK大河ドラマ「花燃ゆ」では長塚京三さんが杉百合之助役を務めます。




<母・滝(タキ)>





松陰の無類の読書好き、勉強好きは父・百合之助の血を引い
たものと思われますが、松陰の明るさ、ポジティブさは正にこの
母の影響であったことは誰も否定できないでしょう。





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https://sites.google.com/site/hagijinbutsu/list/10...





杉家は貧しいながらも一家が団結し、底抜けに明るい家庭で
した。





滝は舅姑の面倒をしっかりみるだけでなく、病人の夫の妹の
看病もよくして皆から感謝される女性でした。





性格はそこのけに明るく、どんな大変な事も明るい方向に転
じさせてしまう人でした。





家の中にもめ事は一切なかったのは彼女の人徳というものです。





松陰が明るく素直な少年そして青年に成長していったバック
ボーンは母・滝の愛情に満ちた人間としての存在が決定的な
ものとなったと思われます。





NHK大河ドラマ「花燃ゆ」では檀ふみさんが滝役を務めます。





ところで現代ではどうでしょう?

明るく素直で率先して両親の手伝いをしたり、真剣に勉強に取
り組んでいるなんていう少年少女どれだけいますかね?

時代が違うのでナンセンスかも知れませんが、そんな子供に出
会ってみたいものです。

でも無理な話かもしれませんね。

そもそも百合之助・滝みたいな親がいないわけですから。

負け組・勝ち組なんて変な考え方が横行する世の中ですが、
いい悪いは別にして過去の先人たちの立派な姿を見習いたい
と思っています。




次回はいよいよ玉木文之進について詳述したいと思います。











吉田松陰の人生略歴3《松陰の性格》 [吉田松陰の人生略歴]

吉田松陰の人生略歴3《松陰の性格》



吉田松陰という人間の性格を一言で言えば



”まっさらな人”

”誠実な人”

”信義に篤い人”

”人を疑うことを知らない人”

”約束を命がけで守る人”

”勇断実行の人”

”明るく前向きな人”

”勤勉・真面目な人”

”公に生きる人”




まだまだあるかも知れません。



友達にしたらこんな素晴らしい親友はないでしょうね。



松陰のことをよく知らない方でも何となくこういった印象が
頭の中にあるのでしょうね。



吉田松陰ときいて彼を悪く言う人をみたことがありません。



さて松陰。



実はこの人格ゆえに自ら縛(ばく)に着き、自ら罪を明らかにしてしまう ことになります。



その辺で遊んでいる小さな子供でも持っているような処世の術を
彼は一切持っていませんでした。



ちょっとでも気が回れば下田でのアメリカ渡航失敗をもって自ら
代官所へ自首などせず、大望達成のため後日を期すべくその場から
逃走することもできたはずです。



船を漕ぎ出した現場は誰も目撃してはいませんでした。




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http://yoshidasyoin-special.blog.so-net.ne.jp/2014...



海から戻った松陰はずぶ濡れの身体で近くの名主宅を訪ねて代官所
へ自首する旨を告げますが、名主にしてみれば見て見ぬ振りをして
逃がしてあげたかったのですが、
「法を犯した以上は自首せねばならない」と主張する
松陰をもてあまし、仕方なく代官所に通報します。



こうして江戸・小伝馬町の牢に入ることになります。



渡航の目的が達せられなかった場合は自首して出るつもりでいたの
でしょうね。



事が露見した場合、藩主に迷惑がかかることをも考慮したのでしょう
か?



古代ギリシャの哲学者ソクラテスが、裁判にかけられ死刑判決を
言い渡されたときに言った「悪法も法である」という言葉が思い出
されますね。



もう1つ松陰のまどろっこしいまでの正直さを示すエピソードが
あります。


幕府からのお尋ね者の攘夷論者の梅田雲浜(ウメダ ウンビン)との蜜謀
の疑いと京都の御所内での落とし文の件で江戸の評定所で尋問を受け
た際の事です。



上記の2件について松陰に罪無しと取調官らは確信します。
むしろこの青年に好感さえ覚えます。



ただ直接尋問に当たる吟味役がひどく優しい口調で松陰の思う憂国論
を尋ねます。誘導尋問だったのです。



自分の主義主張を赤裸々に申し述べれば、たとえ幕府の取調官であっても
きっとわかってくれる・・・と信じて彼の行ってきた行動や企てをも
吟味役以下全員が呆然となるほどの正直さで一切を語っていくのです。



松陰は吟味役の老獪さを見抜けず、いや、見抜こうともせず、自分の
罪状を訊かれもしないのに洗いざらい述べてしまったのです。



むしろ国難回避の自分の考えをこれらの高級役人に訴える絶好の機会
と捉えていたようです。


結果、死罪となります。


あー、なんて馬鹿なことやってるんですかー・・・イライラします。



でも「革命に生きる」とはそういう事なのでしょう。



こういう人格があって松下村塾で影響を受けた数々の若者が火の玉
となって革命運動を推し進めたのですね。



もし松陰が自己の危難を逃れるためにのらりくらりと小手先で相手
に迎合するような人格であったなら若い志士は誰もついていかなか
ったことでしょうし。



次回はこういう松陰の人格形成に影響を与えた人物にスポットを当て
てみます。

吉田松陰の人生略歴2《家族》 [吉田松陰の人生略歴]

吉田松陰の人生略歴2《家族》

父 杉百合之助(スギユリノスケ)


26石取りの下級藩士
   子供たちの教育に熱心で温和な性格。

   もともと無類の読書好きで、また熱心な勤王家
   でもあったそうです。

   後に百人中間頭(ひゃくにんちゅうげんがしら)
   と盗賊改(とうぞくあらため)の役職に就く。

   松下村塾に協力。
   自らも生徒となった。

   慶応元年(1865年)62歳で没。

   大河ドラマでは長塚京三さんが配役されています。



母 杉 滝(スギ タキ)


明るい性格で家じゅうを常に楽しい雰囲気に。
   ポジティブで楽天家。太陽のような肝っ玉母さん。

   晩年には皇室より恩賞も受けた。

   明治23年(1890年)84歳で没。

   大河ドラマでは檀ふみさんが配役されています。



兄 杉 民治(スギ ミンジ)


通称ハ梅太郎ともいう。

   父親ゆずりの冷静で温厚な性格。
   松陰のために物心両面から尽くす。

   後に藩の役人となり各地の民政に携わり大きな
   成果を上げた。

   民治という名は藩主から与えられた褒美の名前です。

   父とともに松下村塾の最初の生徒となります。

   明治9年(1876年)に退職してからは松下村塾を
   引き継ぎ、子弟の教育に当たります。

   明治43年に没。享年83歳。

   大河ドラマでは原田泰造さんが配役されています。



妹 杉 千代(スギ チヨ)


松陰より2つ下。

   年齢が近いせいもあり兄の民治や松陰とは特に
   仲が良かった。

   子供の頃からよく母を手伝い、弟妹の面倒をみていた。

   藩士・児玉初之進(祐之)に嫁ぐ。

   松陰の手紙を大切に保管しており人間松陰に
   触れられるのは千代のお蔭です。

   また、よほど腹の座った女性で、叔父の玉木文之進
   の切腹に際して介錯をしています。

   現代人ではとても考えられないことですね。
   大正13年(1924年)93歳で没。




妹 杉 寿(スギ ヒサ)


   松陰より9つ下。
   松陰の2盤目の妹。
少し活発な妹。

   楫取素彦(かとりもとひこ)の最初の妻となる。
   明治になり群馬県令となった夫を支えた。

   明治14年(1881年)43歳で没。

   大河ドラマでは優香さんが配役されています。




妹 杉 艶(スギ ツヤ)


   早世します。



妹 杉 文(スギ フミ)



   はじめ久坂玄瑞の妻となる。15歳であったそうです。

   久坂玄瑞は禁門の変で自刃して亡くなってしまいます。
   わずか7年の結婚生活で、なをかつ玄瑞は東奔西走で
   留守が多かったのです。

   玄瑞は21通の手紙を妻の文のもとに送っています。
   これらは「涙袖帖」と名づけられました。

   玄瑞を失った文は一時召されて藩主の幼君(毛利元昭)
   の守役を務めます。
   この時、美和子と改名します。

   後、楫取素彦に嫁ぐ。

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公になりますね。

   井上真央さんが主役を務めます。




弟 杉 敏三郎(スギトシサブロウ)


   生来の聾唖(ろうあ)であったそうです。
   習字が得意で読書好きであったとのことです。
   要望が松陰によく似ていたとも言われています。

   明治9年 32歳で病没。




叔父 玉木文之進(タマキ ブンノシン)


  
 父の百合之助が松陰の初等教育を行ったといえますが、
   松陰の中等教育~高等教育の一部までを担当したのが
   叔父の玉木文之進でした。



   6歳から13歳までの松陰を教育しています。

   
   実は松下村塾というのはこの玉木文之進が始めたもの
   です。


   玉木文之進が藩に出仕するようになり、松下村塾は一旦
   閉鎖されますが、養父・吉田大助の弟子であった
   山田宇右衛門(ヤマダ ウエモン)が松下村塾を引き継ぎ、
   13歳から18歳までの松陰を教育していきます。



   従って松陰は松下村塾3代目の塾長ということになります。



   この玉木文之進、松陰に対して徹底的なスパルタ教育
   を行います。


   気に入らない行為があると殴る、蹴る、突き落とす・・・
   松陰曰く「よく生きていたものだ」の厳しい教育でした。



   今のPTAが聞いたら卒倒するようなスパルタ教育です。



   「おまえは公人である。」という教育です。



   ではただ厳しいだけの人であったかというとそうでは
   ありません。


   年に数度のお休みの時などには生徒達と踊ったり、ふざ
   けたり、とします。



   松陰や他の生徒が病気でもしようものなら、オロオロして
   心配します。



   藩に認められ地方代官を歴任しますが、困窮する農民に
   涙を流したり、頂いた特別手当などは貧民救済に使ったり
   するような人物でした。



   長州で起こった不平士族の反乱「萩の乱」に自分の門人が
   多く参加しているのを見て、責任を感じて先祖の墓前にて
   切腹。介錯は杉 千代。


   明治9年(1876年)67歳で没。


   大河ドラマでは奥田瑛二さんが配役されています。
   どんな玉木文之進を演じてくれるのでしょう。

吉田松陰の人生略歴1《全般》 [吉田松陰の人生略歴]

吉田松陰の人生略歴1《全般》



幼少期



1830年(文政13年)8月4日長州藩士・杉百合の助(すぎ ゆりのすけ)の
次男として萩城下の松本村で生まれます。

※「花燃ゆ」の主人公「文」(ふみ)が生まれたのは松陰14歳の時で、1843年
(天保14年)。



実家の杉家は下士の身分で禄高は26石で実態は半士半農の貧しい家ではありました。



1834年(天保5年)叔父の藩士・吉田大助の養子となります。松陰5歳の時のことです。



翌年、吉田大助が病死したため松陰は6歳で吉田家の家督を継いでいくことになります。



吉田家は代々長州藩の山鹿流兵学師範を務める家柄で松陰の未来はその兵学指南者と
決定され、叔父である玉木文之進はじめ吉田大助縁故の高弟らによって一種の英才教育を
藩命によって受けていきます。



特に玉木文之進による教授はスパルタ教育で有名です。
松陰曰く「よく生きていられたものだ」だそうです。




8歳で藩校の明倫館で松陰は教授見習いとなっています。




1838年(天保9年)兵学の教授見習いとして藩校・明倫館に出仕します。
松陰8歳の時でした。




少年松陰の俊英ぶりの評判があまりに高いため藩主毛利慶親(もうりたかちか:敬親ともいう)
の要請で御前講義が行なわれ、そのあまりの出来の良さに藩主が驚嘆します。
松陰10歳の時の出来事としてあまりに有名ですね。




青年期




1850年(嘉永3年)かえい3年と読みます。九州遊学。
松陰20歳。
九州遊学で肥後熊本の宮部鼎三(みやべていぞう)と知り合います。




1851年(嘉永4年)藩主に伴い江戸留学。松陰21歳の時でした。
同年12月、宮部鼎三、江幡五郎との東北遊学の約束を守るため脱藩。
1852年4月 長州藩邸へ出頭。罪人として帰国。士籍と家禄を没収されます。




1853年(嘉永6年)1月 藩主・毛利敬親の温情により10年間の遊学を許可され
畿内遊学を経て江戸へ。佐久間象山と再会します。松陰22歳。



同年6月ペリー来航。浦賀に走り黒船を見る。大いなるショックとともに
いよいよ国防意識が高まります。



同年7月海外渡航を企て、ロシア艦隊の長崎入港に合わせて急行するも
タイミングが合わずに失敗。



1854年(安政元年)3月5日 ペリー来航を聞き、下田へ急行する。



同年3月27日、従者の金子重輔(しげのすけ)を伴い、
アメリカ艦船ポーハタン号に乗り込みアメリカ渡航を嘆願するが、
断固拒否されてしまいます。
日米和親条約(神奈川条約)が成ったばかりのこの時にアメリカ側にすれば
到底受け入れがたかったのでしょう。
この時、松陰24歳。




同年3月28日 下田代官所に自首。
同年4月15日 江戸・伝馬町に入獄。
同年9月18日 長州藩での幽閉を申し渡される。
同年10月24日 萩に到着後、野山獄に収監される。




1855年(安政3年)12月15日 杉家に預けられる。




1856年(安政3年)8月22日 門下生に講義を開始する。
松陰による松下村塾の始まりです。 この時、松陰26歳。
1857年(安政4年)11月5日 杉家の小屋を改修して講義室を作る。
※現存する松下村塾の建物ですね。




1858年(安政5年)12月26日 再び野山獄へ入れられる。
※周布政之助(すふ まさのすけ)に老中・間部あき勝の襲撃する計画を
打ち明けるが、周布は藩の為、松陰を野山獄に入獄させる。
じつはこれ、幕府から松陰の身を守るためでしたが。




1859年(安政6年)4月19日 幕府より江戸移送の命令が達せられる。
時はまさに安政の大獄の真っ最中。



同年6月24日 江戸上屋敷の獄に繋がれる。
同年7月9日 評定所において尋問が始まる。
※松陰は嘘偽りなく事実を述べ、また自分の意見を申し立てていきます。



同年10月27日 死罪が申しわたされ、同日処刑されます。
この時、松陰29歳。

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