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吉田松陰の人生略歴6《松陰の人格形成3》 [吉田松陰の人生略歴]

吉田松陰の人生略歴6《松陰の人格形成3》




この項では吉田松陰が育った長州藩という、いわば土台について書いて
みたいと思います。




長州藩の藩主は毛利氏ですね。

毛利氏といえば戦国時代においては安芸の国(広島)を根拠地に、山陽・
山陰の十一カ国を版図として中国地方に威を振るった大大名でした。

関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗れて後、徳川幕府によって長門(ながと)・
周防(すおう)の2カ国(今の山口県)に押し込められ、中大名に格下げとなりました。

以来300年間、ひたすら幕府を怖れ、ひたすら事なかれ主義で過ごす「ただの
大名」になり下がりました。




しかし、その「ただの大名」であった毛利長州藩が幕末にいたり再び歴史の
舞台に躍り上がり、最大の革命勢力となり、ついには徳川幕府を倒し、
封建制度を突き崩して日本に新しい時代を招き寄せる主導勢力になります。




毛利長州藩あっての吉田松陰であり、高杉晋作であり、久坂玄瑞であり、
その他多くの志士が志士で有り得たと考えられるのですが、彼らの下地になっている
毛利長州藩の政治風土はどのようなものであったかを知ることもタメになると
思います。




松陰7歳の時(天保8年)に毛利慶親(よしちか)が藩主となる。 後に敬親(たかちか)と名乗ります。




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敬親が藩主に就任した当時、長州藩の財政は大変な大赤字状態で、企業であれば
とっくに倒産状態でした。




そこで敬親は財政立て直しのため村田清風という人物を起用して自由に藩政改革、藩学振興、士風刷新の新政治を行わせています。





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http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/gyosei/bunka-s/ish...





村田清風は破綻寸前の藩財政を立て直すなど辣腕を振るっていきます。
また身分にこだわらず藩政に関する意見を積極的に受け入れたりもしました。
封建制度にあっては考えられない柔軟さです。




こうした風通しが良く日当たりのよい政治環境に松陰の成長期がたまたま 遭遇していました。




松陰が成人していく過程でこのように藩政が今までのような沈滞したものから
活気と可能性に満ちた時代に遭遇しています。




松陰という青年は惨憺(さんたん)たる苦難にあいながらも常に明るく、楽天的で、
死の直前まで絶望ということを知らなかった。
幕府でさえ話せば分かり合えるであろうという,甘いというか、人の良さ
が心のどこかに沈着していました。
ただ、そういう楽天性が百の挫折にも撓む(たわむ)ことがない松陰を
作る一因にもなっていたと考えられます。




この不思議な性格はこの時期の藩風が大いに影響しているということです。




さて13代長州藩藩主・毛利敬親(タカチカ)に起用された村田清風は思い
通りの藩政改革・藩学振興・士風刷新の新らしい政治を行っていきます。
藩命として幼少の松陰に玉木文之進はじめ優秀な官命教授を次々に付けて
英才教育をおこなわしめたのも清風でした。




松陰は九州遊学を行った後、引き続き江戸留学の願いを出して、結局、
認められています。




簡単に九州遊学と言いますが、他藩を訪ね歩くということはこの時代
そう簡単なことではありませんでした。




日本はこの時代、鎖国をしていましたね。
外国との関係だけで鎖国を認識しがちですが、基本的に藩士が他藩へ
出入りすることもご法度(ごはっと)の時代だったんです。
つまり基本的に藩単位で鎖国体制にあったんですね。
許可なく藩を出てしまうことは「脱藩」といって重罪でした。
それ程に藩外への出向にはどの藩も神経質な体質を持っていたのです。




松陰が自己の勉学向上の為九州遊学を申し出ると難なく許可が下ります。
九州遊学から帰るやいなや江戸留学の希望を申し出るとこれまた難なく
許可が下ります。
江戸遊学については藩主のお伴という名目でしたが、先行して自由に地理
を見聞させてほしいと申し出るとこれまた快く許可されてしまいます。




松陰には藩はかなり甘かったんですね。
またそれだけの期待もあり甘やかしたんでしょうか。




基本的にこの藩は学才があり、才気に富む若者を大事にするというか 一種甘やかす顔を持っています。




藩自体の特徴として勉強好きで、何事にも理由付け、理論づけ、理屈付けを
することがやたらに目立つ藩でした。
それは藩士一人一人にも共通していたことのようでした。
また、地理的に江戸と離れているせいか学問や知識を江戸で吸収することに
貪欲でもあった藩です。
知識欲の点では並み大抵ではなかったことは事実です。
江戸近郊の諸藩などそういう点では眠っているも同然の状態でしたが。





文武修行のためならその筋の役人らは松陰のために好意的に事を運んで
くれました。
こういう点での世間的な苦労の必要のなかったことが松陰をして人を
疑うことを知らない明るい人間性を醸成した一因かも知れません。




江戸留学中に松陰は親友2人と東北遊学を計画します。
藩江戸屋敷の役人にも許可を得ますが、過書手形の発行が出発の約束の期日
までに間に合わないことになります。
ここで松陰はなんと藩に無断で出発してしまいます。
友人との約束を守るためでした。




これは立派な脱藩行為です。




江戸に戻った松陰は藩江戸屋敷に出頭します。
そして脱藩を犯した罪人として萩に送り返されます。




藩は松陰に対して正式な処罰が下る間での間「親類あずけ」の処置を下します。
正式な通知が下ります。
「士籍はく奪」「家禄没収」という重い処分でした。




この時の執政は村田清風ではなく、坪井九右衛門という清風とは真逆の反動
政治家でした。




もしこの時も清風が執政であったならここまで思い処分は無かったことでしょう。




ところでこの重い処断にも救済策が用意されていました。




「実父杉百合之助の育(はぐくみ)とする」というものです。
「育(はぐくみ)」というのは長州藩独自の制度で、公式の居候、公式の被保護者
という意味合いのものです。
これにより松陰は完全なる浪人にはならずに済んでいます。
またあろうことか松陰の才を惜しむ藩主の温情により「むこう十年の修行」という
名目で自由に研鑽に励む時間を与えられます。




藩といい藩主といい才ある若者には寛容なのです。





次に松陰が藩と関わりをもつのがアメリカ密航事件の後、藩へ送り返されてから
のことになります。




幕命による松陰への刑は「自宅で蟄居(ちっきょ)させよ」というものでしたが、
ですが藩はあえて松陰を獄に入れます。野山獄という侍専用の獄です。
これは幕府に対しての恐れから行ったものでした。
まだ幕府というものがこわかったんですね。
後に病気療養を理由に松陰を実家の杉家に蟄居させますが。





何とも言えないところですが、他藩であれば国禁を犯した重罪人ということで
死罪もあったのかも知れませんね。





長州藩にすれば最初は藩法を犯した・・・「うん、けしからんぞ」という気分だった
と思います。

次は国としての法を犯して返されてきた。・・・「幕府の都合で罪を問われ送り返され
てきたのか。可愛そうに。しょうがないなぁ」という気分だったと思います。

表面上は幕府に対しては恐れ入ってはいるのですが、内実は藩の者で幕府の法を犯した
者が出ると内々でいたわり、その志を憐れむという気分を誰もが持っていたようです。
関ヶ原で敗れ、国を縮小され、300年の間、藩として「おのれ徳川」の気分が微かに
伝わり続けていたのではないでしょうか。




とにかくここでも藩は松陰にむごい仕打ちはしていません。




最後に長州藩が松陰と幕府に関わることがありました。




時は安政の大獄の嵐の吹きすさぶ中、松陰が幕府の命令により江戸へ護送され、
梅田雲浜(ウンビン)との談合密議と御所の庭に落ちていた落文(おとしぶみ)の件で
幕府評定所での尋問の当日、長州藩は松陰に対して最後のやさしさを見せています。




囚人籠を護送する人数として士分の者三人、足軽中間が三十人、先頭には騎馬武士が一騎。
この仰々しい行列を見せつけることで、いかに松陰が藩にとって大切な人物であるかを
幕府にアピールする目的でした。
ここまですれば幕府としても長州藩に遠慮も入り、松陰の罪が軽くなるやも知れない、
という期待があったのです。
何とかして松陰を守りたかったんでしょうね。




以上が直接松陰に対する藩の対応の概略ですが、松陰に対しいかに理解があり、
優しく寛容であったかが伺えますね。





さて村田清風とその後の藩の政治体制の変遷についても理解しておくと松陰に対する
理解と久坂玄瑞や高杉晋作といった若者の台頭の下地というか根拠が深く理解できて
よろしいかと思います。





長くなりましたので次の項で続けたいと思います。
脇道に入ると更に長くなるのでピンポイントで絞って書いてみました。



ご精読ありがとうございます。


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