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吉田松陰と愛弟子たち5《高杉晋作ー2》 [吉田松陰と愛弟子たち]

高杉晋作と功山寺挙兵




1864年(元治元年)7月19日の禁門の変で久坂玄瑞が自刃して果て、
長州藩は再び京を追われ逃げ帰ります。





幕府は禁門の変の戦果で自信を回復し、長州討伐を決定します。
討伐軍の責任者・総督に選ばれたのは前尾張藩主の徳川慶勝(ヨシカツ)。
慶勝は全権委任を条件に渋々ながら役目を受諾しています。





徳川慶勝
img_12.jpg
http://blogs.yahoo.co.jp/digital_devil0611/archive...






表立って関わりたくはなかったのでしょう。
その代わり自分の判断や仕置きについて幕府首脳といえども口を
出すな、という条件をつけたのだと思います。






幕府首脳としては、この際、長州藩を攻め滅ぼしてしまいたかった
はずです。会津藩にしても思いは同じだったはずです。
長州藩の息の根を止めてしまえば攘夷運動は下火になることが目に
見えていますからね。






当初、会津藩と薩摩藩を主力に西国諸藩計20藩が一斉に各方面から
長州藩に襲い掛かり、半年以内には全ての決着をつけるつもりで
幕府首脳はいました。






ところが薩摩藩が様々な理由を立てて従軍を回避しようとするのです。






なかなか攻撃開始命令が出せません。
会津藩はヤキモキしたことでしょう。






初め、将軍自ら出馬ということであったのに結局は出てこないという
事実に、出陣してきた西国大名たちも内心やる気が薄れていたんじゃ
ないかと想像できます。






そして薩摩藩としては長州藩に謝罪、恭順の意を示させることで決着
を図ることを提案するのです。
なにもわざわざ戦争する必要ないよ・・・という主張ですね。







幕閣の思惑を無視して総督の徳川慶勝はこれに同意し、西郷隆盛を
参謀格として遇します。






隆盛は長州藩内で俗論党によるクーデターを起こさしめ、正義党を弾圧
させます。





また、禁門の変の主導者である3家老と4参謀の処刑を行わせしめ、
同時に藩主父子の蟄居、山口城の破却、匿っていた公家の九州移転が
確認できた段階で総督の徳川慶勝は早くも撤兵を命じました。
12月27日のことでした。





辛くも即時長州壊滅は避けられました。

長州藩は薩摩藩に助けられた形になりますね。






「いつかは長州と手を組む日が来るやも知れない」という展望に立つ
西郷隆盛の「長州に恩を売っておこう」という政略的な思惑でした。






ここに当代一流の謀略家としての西郷隆盛の凄味がみられます。
西郷の頭の中には既に「倒幕」が至近距離に置かれていたのかも知れま
せん。
それにしてもすごい腹芸ですね。






さてさて我らが高杉晋作は俗論党が藩政を握ったとみるや九州へ逃亡
しています。
正義党の政務役(執政)であり兄貴分のような周布政之助は9月25日に割腹
自殺を遂げています。
また松陰門下の同窓の井上聞多(モンタ)が同日の夜、俗論党の放った刺客に
襲われ、ナマスのように切り付けられ瀕死の重体に陥りました。






晋作は一人、九州の地で正義党復活のチャンスを狙っていました。






11月11日、12日 上記3家老と4参謀が処刑され、その4日後、長州
処分の予備会談が行われます。
本会談がいつになるかも未定の段階にある時、11月25日晋作は密かに
長州に舞い戻ってきます。






奇兵隊を中心に諸隊の軍事力をもってクーデターを起こし、俗論党政府
を倒す計画を考えたのです。





諸隊というのは身分を問わず志願制で出来上がった戦闘部隊で、禁門の変
で名をはせた来島又兵衛が編成した者たちの集まりですね。
単純攘夷の思想に凝り固まった戦闘集団で禁門の変から命からがら逃げ帰り
はしましたが単純攘夷の強い意志は変わりません。
四か国連合艦隊ともその後すぐに戦っていたんですね。






その奇兵隊や諸隊に俗論政府は解散命令を下しますが、今までの行きがかり上
おいそれと従うわけにもいかず、仕方なく長州藩の分家である長府藩主を
頼り、長府に集結しているとの情報を得ていたのです。





12月16日わずか80人という少なすぎる人数をもって晋作は挙兵します。





長州討伐軍の解散が12月27日ですからその10日あまり前ですね。
なぜ解散したのでしょう?





ちょっとこの辺理解に苦しみますが、総督の徳川慶勝にはまるでやる気が
感じられませんね。
俗論党政府を助けるべく動いてみるのが筋だと思うのですが、見て見ぬふり
で解散です。
もしかすると影で西郷隆盛から何か言われたのかも知れませんね。
あくまでも憶測ですが。





しかし、80人ですよ。
あなたが晋作なら挙兵しますか?





「革命」は「気」なんでしょうね。
初戦から小さな勝利を連続すれば状況は変わり、革命戦争に追従してくる
者たちも増える、と踏んでの決起だったと思います。





実際、下関の藩役所を皮切りに三田尻の海軍局を襲撃して勝利を収めると
それまで模様眺めしていた奇兵隊その他の諸隊が遅ればせながら参戦して
きました。
俗論党の戦闘集団は上士たちだけの集団でいざ実戦となると腰砕けで
あったのも幸いしました。
連戦連勝で味方も増えていきます。
そして太田、絵堂の戦いに勝利し、ついに俗論党を倒してしまいます。





やはり晋作は時代の局面を切り開くことのできる戦略的能力がずば抜けて
いますね。





この後、長州藩は桂小五郎をトップに、晋作、井上聞多、広沢真臣
(さねおみ)、前原一誠らを中心とした改革派(正義派)政権となり、
表向きは幕府に恭順を示しつつも内にあっては割拠独立のため軍備の
充実を急ぐ「武備恭順」体制を敷いていきます。







吉田松陰と愛弟子たち4 《高杉晋作ー1》 [吉田松陰と愛弟子たち]

高杉晋作の生涯<前半>


1839年(天保10年)高杉家の一粒種で誕生。
書き方悪いですかね。
唯一の男子が晋作で、後に3人の妹が生まれています。



晋作の家は中級程度の上士の家柄といったところ。
石高は250石。



0047_l.jpg
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/121.html?c=0



代々、藩の中級官僚として小過すらなく無難に勤め上げてきた家でした。
全てにおいて穏やかに過ごし、周囲との調和を旨とする代々でした。
晋作はその高杉家の一人息子で風邪ひとつひかせぬように大事に育て
られました。



武士の家ですからそれなりの厳しさもあったこととは思いますが、
どちらかといえば甘やかされて育ったようです。
大人の偉さや世の権威など深く認識することなく、ありていに言えば
わがまま育ち。



しかし、両親に対する孝心と藩主に対する忠誠心は人並み以上をはるかに
凌駕するものがありました。
倒幕という革命運動に命を的に突き進む晋作でしたが両親と藩主への
配慮は並大抵ではなかったのです。



そういえば晋作は小さい頃から経書を読むより詩歌を好み、「先陣の
大将」になることが望みでした。



封建制度の身分秩序を上士の身分でありながら破壊し、その先頭に立つ
自身を現実化したのは晋作の持って生まれた性格、家庭環境、そして
吉田松陰という師との出会いがあったからでしょう。


高杉晋作と吉田松陰の出会いは1857年(安政4年)11月を過ぎたある日。
杉家の庭にあった物置小屋を講義室に修繕し終わってしばらく経った頃
のことでした。



松陰27歳。晋作19歳。



晋作を松陰に紹介したのは中谷正亮(ショウスケ)。松陰の門下生であり友人
でした。
晋作を誘ったのは久坂玄瑞だという説もあります。



晋作は藩校明倫館に通っていましたが、十年一日のごとく訓詁(くんこ)を
押し付けられる学習に飽き飽きしていました。
その上、明倫館では学生が時事を論ずることを禁止していました。
晋作にとっては面白くなかったわけです。



剣術の稽古や詩歌の創作に力を入れていました。
松下村塾の噂はずっと以前から耳にしていました。
そんな折り、知人の中谷正亮に半ば強引に誘われて松陰に会いに出かけます。



松陰から晋作に自作の詩を披露するよう言われます。
晋作は内心「俺の実力をみせてやろう」と自信のある詩を松陰に見せます。
「どうです、なかなかのもんでしょう」という得意げな様子が松陰には見て
とれました。



松陰は一応褒めはしますが、こう言います。
「久坂玄瑞には及ばない」と。



久坂玄瑞は晋作の一つ下です。
医者の卵で、明倫館に在学中はかなり優秀だった、という噂はかねがね耳に
していました。



晋作、ショックです。



玄瑞に紹介された時、こう思います。
「こんな奴に負けてたまるか」
俄然、ライバル心を掻き立てられ、その日以降、毎晩、家をこっそり抜け出し
ては松下村塾に通うようになります。



大人というものを尊敬することの少ないこの晋作が松陰に対し心惹かれ、
やがて心酔していきます。



松陰は晋作を一目見て、久坂玄瑞とはタイプの異なる異才をもつ晋作の出現に
内心喜びますが、最初にやったことは晋作の鼻っ柱を簡単にへし折ることでした。
「久坂玄瑞には及ばない」と。
やがて晋作は玄瑞とともに松下村塾の双璧といわれるまでに成長していきます。



いいですねー。
若さですね。
玄瑞も最初は松陰からこっぴどくやられてましたね。




玄瑞も晋作も師・松陰から「狂」を学び「覚悟」を教えられなければ平凡な
侍として生涯を終えたかも知れません。




「世の中に認められたいから学ぶのではない」
「人間として恥ずかしくない生き方をするために勉強しているのです」
「周りから何と言われようとも正しいと信じた道を歩こう」
「世の中に風穴をあけるには覚悟が必要です」
「諸君、狂いたまえ」




晋作は江戸へ遊学することになります。
当時の最高学府「昌平黌」(しょうへいこう)で学ぶようにとの藩命でした。





その江戸在住中、松陰が幕府から江戸召喚を命ぜられ、小伝馬町の獄に入ります。
大老・井伊直弼による安政の大獄に連なる嫌疑のためでした。
1859年(安政6年)7月でした。



当時の獄舎は文字通り地獄の一丁目でした。
牢名主や牢番に金を付け届けしないと理不尽を超えた仕打ちを受けたりします。



晋作は八方手を尽くして師のために金策に走り回ります。
けなげですよね。



そのおかげで松陰は牢の中で平穏に過ごすことができ、手紙や弟子たちに残す
文書も書くことができました。



晋作はこういう質問をしています。
「武士はどのような死に方をすればよろしいか」



松陰は答えています。
「死して不朽の見込みあらばいつでも死んでいい。生きて大業の見込み
あらばいつでも生くべし」

不朽の見込みとは永遠に名を残すことをいうんだと思います。



師がどのような処分になるのかわからぬまま藩命で急きょ長州へ帰る
ことになります。




1859年(安政6年)10月27日 師・松陰が処刑されます。





晋作が長州に戻ると縁談話が待っていました。
相手は高杉家よりやや上位の家柄の井上家の娘・お雅でした。
お雅は長州一の美人の呼び声高い娘で多くの縁談申し込みがあった女性です。





晋作が師の死亡を知ったのはこの縁談が決まった後でした。
当時は情報というものは人が歩く速さで伝わったものなんです。
萩一番の美人との縁談話は晋作にしても内面に渦巻く志からすると複雑な心境
ではあったにせよ喜ばしい気持ちもあったのではないかと勝手に想像してみたり
するのですが、要するに縁談が決まってから師の死を知ったわけで喜びもいっぺんに
吹き飛んだことでしょう。





目の前が真っ暗になるような名状しがたいショックを受けます。
この日、晋作は松本村に走り、松陰が閉居していた三畳の部屋にあがり、
夜更けまで呆然と暮らしました。




神のごとく尊敬していた松陰の死は心を凍らせるものでしたでしょう。



「この人の志を継ぐ者は、自分しかいない」



・・・晋作は密かに決意します。





婚儀は明けて1860年(万延元年)1月23日 晋作20歳でした。


松陰の江戸召喚の詳細についてはこちらを参照してください。



それから2年程は比較的穏やかな日々が続きました。
穏やかといっても晋作の心中は「何をなすべきか」で揺れ続けていたのですが。



鬱々とするある日、海軍教習所に入ることを思いつき頼み込んで入所させて
もらい、江戸までの練習航海に参加したりしています。



船酔いが酷く、自分にはとても合わないということであっさり諦めてしまいます。
そのまま江戸で学問修行の名目で滞在しようとします。
藩はこれも了解します。
簡単に書いていますが当時こんな勝手などとうてい他藩では考えられません。
長州藩は若い者に甘いですね。




江戸に置いておいては何をしでかすか心配でならない父親・小忠太は再び晋作に
長州へ戻るよう指示してきます。


父・小忠太は藩の重役ですから晋作を呼び戻す小細工など簡単にしてのけます。


仕方なく戻ることになりますが真っ直ぐ帰らず、信州松本に立ち寄り師・松陰の
師匠である佐久間象山を訪ねています。
しかし、どうやら佐久間象山とは気が合わなかったようです。





そんなこんなで長州へ戻ると藩校明倫館の明倫館舎長という職務を命じられます。
学生たちの面倒をみる大将みたいな役職で若い書生たちのあこがれの役職でした。
ついで世子(せいし)毛利元徳(モトノリ)のお小姓役に抜擢されます。
旅から帰って4ヶ月しか経っていません。1861年(文久元年)3月の初めです。
晋作22歳になっています。
高杉家の嫡男ということもあるのでしょうが、晋作に対する藩の人事態度は常に
寛容と好意に溢れています。



しかし平穏な日々は瞬く間に終わります。



江戸湾の警備要員として江戸へ立つよう命令が下ります。
世子お小姓役拝命から4ヶ月も経たない6月半ばのことです。



実はこの人事、久坂玄瑞ら江戸長州藩邸詰めの松陰門下生たちの策略で、晋作を
お番手として江戸へ呼ぶ人事を画策したものでした。



この時期の江戸の長州藩邸といえば過激書生の巣窟でした。



一頃の水戸藩に代って「外国人など斬ってすてるべし」という単純攘夷論の
卸し問屋のような定評ができあがりつつあった時期です。



もちろん長州藩全体がそうであったのではなく、江戸にいる松下村塾系の書生
たちのことで、彼等は藩の上層部を脅迫したり、他藩の志士と連絡を取り合ったり
して世間の印象では一見彼等が藩を動かしているかのように見えたのでした。




この松下村塾系長州書生党の弱点は総大将となる人物を欠いていることでした。




確かに桂小五郎は思慮深さや同志に対する親切心があり、人望もありますが、
自ら時代の局面を切り開くという創造的な才能は持っておらず、その点は松陰お気に
入りの久坂玄瑞も同様でした。



玄瑞は議論の鋭さにおいては桂小五郎よりもはるかに優れており、ひとたび口を
開けば聞く者を引きつけずにはおかない情熱が迸ります。
しかしそこまでのことでありました。
玄瑞は激越すぎるために前の前、次の次を見通す戦略的感覚に乏しく、この若き
長州書生党の首領というには相応しくなさそうです。



水戸藩の藤田東湖や薩摩藩の西郷隆盛に匹敵する素養を持った仲間としては
高杉晋作しかおらず、それは桂も玄瑞も他の同志も等しく認めるところだったようです。
そこで密かに藩庁に運動して晋作を江戸へ来させたというわけ。



1861年(文久元年)7月30日 晋作が江戸桜田の長州藩邸へ入ると同志たちの歓呼
の声に迎えられます。



いよいよここから晋作が歴史の舞台に登場してくるのです。。





周布政之助 理解 相談役
桂小五郎 顧問 理解 相談役 兄貴分
高杉晋作 総大将
久坂玄瑞 言論&実行隊長

こういう位置ずけになります。



後の功山寺挙兵を考えると、なるほど自ら時代の局面を切り開くという創造的な才能
は晋作にしかありえなかったと納得できます。


晋作にせよ、玄瑞にせよ故郷に妻を残したまま政治活動に熱中していくんですね。
現代ではちと考えられなさそうですが。
ま、それほどに時局が切羽詰まり始めた時代だったせいもあるのでしょう。
国家を救わずして家庭の平和もない・・・そんな感覚があったのやも知れません。
いや、国事に奔走することこそが男子一生の仕事と割り切り、あえて家庭を顧みない
道を選んだのでしょう。
そう思います。
妻の立場としては寂し過ぎたと思われますが。




さてこの頃、長州藩の頭脳と謳われていた長井雅樂(ナガイウタ)による「航海遠略策」が
朝廷と幕府の両方から注目を浴びていました。



長井雅樂は長州藩の名門中の名門で代々藩の重職を担ってきた家柄です。
長井は藩主・敬親(タカチカ)の要請を受け、この混乱の時勢の解決策を提出します。
「航海遠略策」とは朝廷と幕府が協力して開国・貿易を行い、国を富まして、軍備を
整え、異国の侵略に対抗していこう、という考え方です。



この考え方は先ず攘夷優先の考え方の攘夷志士である松下村塾系の久坂玄瑞や高杉晋作らの
意見と真っ向対立するものでした。
また、「航海遠略策」の対抗理論から必然として「倒幕」概念が発生してきます。
その詳細はこちらを参照してください。




久坂、高杉らは長井暗殺を企てます。
長井に対する憎しみには師・松陰を刑死に追いやったのは長井である、という誤解も
含まれていました。




暗殺計画の首謀者の一人である高杉には周布政之助が一計を案じています。
晋作を罪人にしたくなかったんですね。



貿易開始にあたりその実務を学ばせるために幕府が優秀な人材を上海に渡航させる計画
があって、その長州藩代表に周布は高杉を選んで長井暗殺に参加できないようにしたのです。



晋作の上海渡航 1862年(文久2年)5月



ちなみに、晋作はこの上海渡航を通じて「倒幕」、「革命」の必要性を強く認識するに
いたります。彼にとっては「攘夷」はそのための「方便」と化したのです。



開国も貿易も軍備の西洋化も必要であることを認識した上で、あえて「攘夷」という
非常識をもって「革命」に当たることを決意したのでした。


常識では革命は成しえない・・・というのです。



晋作にとって「攘夷」は大手品のタネとシカケになったのです。
これは師の吉田松陰さえも持たなかった戦略理論でした。



以後、以前にも増してわざと「攘夷」「攘夷」と大声でわめき散らすようになります。






さて周布政之助ですが、、久坂玄瑞に対しても長井暗殺を思い止まるよう説得しますが、
逆に玄瑞に説得され、藩主に会うべく二人して無断で江戸を離れます。そのため、二人は
長州へ帰らされ、自宅蟄居処分を受けています。





そうこうする間に皇女和宮の江戸降嫁が実行され、また坂下門外の変が起きます。
この間も「航海遠略策」は正式な藩論となろうとしていました。





やがて二人とも蟄居を許され、周布は江戸へ、玄瑞は兵庫へ向かうべく藩命を受けます。





この頃になって一時もてはやされていた「航海遠略策」に対して朝廷から天皇を誹謗する
文言がみえる、ということで長井雅樂の個人的責任を追及する風が吹き出します。
玄瑞が盛んに言い触らした成果がでてきたのです。
藩主・敬親は朝廷から叱責を受け、長井を長州へ帰らせます。




帰国途中の長井を襲うべく玄瑞を中心に6人の暗殺団を結成して草津方面に出向きます。
しかし、その気配を察した長井にうまくかわされてしまいます。




暗殺団のうち伊藤俊輔をのぞく5人は京都藩邸に入り、長井襲撃失敗の旨を記した
待罪書を玄瑞と他2人の連名で提出します。



3人は藩邸近くの法雲寺で約100日間謹慎となります。



やがて長井は切腹することになります。




ここでは余談になりますが・・・

謹慎が解けた後、偶然玄瑞はある女性と再会します。井筒タツです。
辰路(タツジ)という名で芸妓をしていました。
攘夷活動家・梅田雲浜(ウンビン)を訪問した際に知り合いになっていた女性でした。
二人はこの日を境に恋人になっていき、玄瑞の死後に井筒タツは玄瑞の子を出産します。




さてこうして時間はまた過ぎていきます。



晋作は「御楯組」(みたてぐみ)という攘夷決行の決死隊を創ります。
大将は晋作、副将は玄瑞、メンバーは井上聞多、寺島忠三郎、赤根武人()、品川弥二郎ら
松下村塾の門下生21名。



文久2年12月12日 江戸品川の妓楼「土蔵相模」に集合。
晋作の提案で江戸・御殿山の英国公使館を焼き討ちします。
幕府を困らせるのが狙いです。



初め、玄瑞は異人を殺したり、公使館を焼き討ちしたりすることに反対していました。
そんな小さい事ばかりでは埒が明かない、長州藩一体となって藩の力で外国船を攻撃し、
戦争に持ち込むことこそが真の攘夷だと主張するのです。
そして戦えば必ず勝つと信じていたのです、久坂らは
師・松陰の海戦策の無力をまだ知らない状態なんですね。




対して晋作は上海で外国の文明の力や軍事力の大きさをその目で見てきています。
とてものこと戦えるものではないことを十分承知しています。
ですが晋作、黙っています。
今そのことを言ったところで到底分かってはもらえないし、長州藩を焦土とすることで
革命の火ぶたが切って落とされるとの考えあっての沈黙でした。




さて御殿山の英国公使館の焼き討ち犯人は長州藩の者であろうと幕府は薄々推測して
いましたが、断固たる態度には出ませんでした。
この当時の江戸在住の長州藩官僚の多くは公武合体派が多く、まともに長州藩を詰問して
長州藩をわざわざ敵に回したくないとの考えがあったからでした。




焼き討ちに参加したメンバーのほとんどは事件後、藩命により国詰めになったり、
京都詰めになったりして江戸から消えています。



ただ晋作は一人江戸に残ります。
次の企画が彼にはあったんです。



焼き討ち事件の翌年1863年(文久3年)




正月5日の朝 晋作は騎馬で桜田藩邸を出発します。
そのいでたちは黒塗りで金の定紋入りの陣笠をかぶり、白緒であごを引き締め、陣羽織
を着込むという戦さ装束で、大身の槍を中間に持たせるというイヤでも目立つ仰々しさです。



従う伊藤俊輔ら4人の同志は笠、裃(かみしも)をつけた喪服姿で、さらに人夫6人に
大甕(おおがめ)と鍬(くわ)を持たせて小塚原に埋められている師・吉田松陰の遺骨を
世田谷村若林の大夫山にある毛利家の別荘地に改葬しようというのです。



途中、正月でにぎわう上野の盛り場の雑踏の中を堂々と行列を進め、将軍しか通れない
とされている御成橋(おなりばし)を橋番の制止を無視して通過してしまいます。
将軍専用の橋で他の人間が渡れば首をはねられるのですが、晋作、もとより死を覚悟の
行動で、一向に気にしません。
どころか将軍家茂の名を呼び捨てにしてもいます。




この時期、江戸で何かをしでかして死ぬことが晋作の心を占めていました。
これをやったら幕府はどう出るか?それが知りたい、という晋作でした。
そのために死罪となってもよい、と決めていたのでした。




これだけ堂々と幕府や将軍家を小馬鹿にした所業は江戸時代始まってから一度もなかった
事です。




これほどの事件でも幕府は不問に付しています。
長州藩が攘夷か公武合体かの藩論が決定的に定まっていない現状で長州藩を
敵にしたくないのですね。




驚いたのは国許にいる藩主父子でした。
このまま晋作を江戸に置いていたのでは又何をしでかすか分からない、ということで
急いで晋作を国許へ呼び戻します。




この帰国の途中、晋作は白昼堂々、箱根の関所で関所破りをしています。
徳川300年の歴史の中で公然と関所破りをしでかしたのは晋作ただ一人です。




また、やはりこの帰国の途中、京に入った時、ちょうど将軍が天皇に拝謁のため京へ
上洛していました。この将軍上洛、天皇とともに賀茂行幸ついで石清水八幡宮にお伴を
することになっており、石清水八幡宮に詣でさせ「即時攘夷」を誓わせる段取りになって
いました。



もちろん長州過激派の玄瑞らの画策でした。



晋作は賀茂行幸の華麗な行列を他の人達に混じって、加茂河原にひざまずいて見物して
いました。
そして将軍・家茂が前を通過すると立ち上がって「いよう。・・・征夷大将軍」と
大声でからかうように声をあげたのです。
これも徳川時代を通じて初めての出来事です。



このためもあってか、幕府は長州藩を目の敵にし始めます。
この後、さかんに宮廷工作を行い、親幕府派の親王や公家をあつめ、長州藩の戦略を
封じ込めようとやっきになってきます。



その風潮を敏感に感じ取り、同調したのが薩摩藩でした。
薩摩藩も藩論の基本は公武合体ですが、西郷隆盛や大久保利通などは内面に「攘夷」の思いを秘めて
います。その西郷や大久保にとって本来は共に「攘夷」を目指すはずの長州藩が目障りで
なりません。
あまりにも長州藩だけが攘夷運動において目立ち過ぎているからです。



薩摩も土佐もでき得れば自分が攘夷運動のリーダーでありたいと内心は思っていたのですね。
要するに嫉妬、やきもちがあったのです。



何とかして長州の足を引っ張りたいと思っていたので、この波に乗っていくことになります。
これが後に八月十八日の政変につながります。




さて晋作、将軍が京に滞在しているこの機会に将軍・家茂を暗殺する計画を立てます。
21名の決死隊を組織してチャンスを待ちますが、仲間のしでかしたちょっとしたミスで
将軍の行列への切り込み計画は未遂のうちに終わります。




この後すぐに晋作は頭を坊主にしてしまい、周布政之助の元を訪れ、僧になって十年藩を
離れたい旨を告げます。
武士が勝手に髷(まげ)を切るのは御法度でした。
それが十年は政治から離れ僧となって暮らしたいからその許可をくれ、と周布に頼み込んで
いるんですね。



将軍暗殺も出来なかった今は何もすることが無くなった、と彼は感じたんですね。
晋作は坊主頭で萩に帰っていきます。

なんと短い期間に様々な事をしでかしてきてますね、晋作は。
すべて命を捨ててやってきています。

萩に戻った晋作は山中の山小屋を庵として使い出家生活に入ります。
どこまで本気なのか本人にもよく分りません。



しかし歴史は晋作にのんきな隠遁生活を許しませんでした。




晋作が隠遁生活を始めて1か月過ぎようとする頃、長州・下関で戦争が始まったのです。
これは幕府が苦し紛れに出した「5月10日をもって攘夷を決行する」という言質(げんち)
を取った玄瑞らが起こしたもので、関門海峡を通過する外国船に向けて発砲したものでした。
緒戦こそ不意打ち攻撃で戦果を挙げはしましたが、外国の軍艦が出てくると完全な負け戦に
なってしまいます。




晋作は急きょ、藩主直々のお召を受けます。
藩主は過去の脱藩の罪を許し、馬関防衛の指揮官に任じます。





以降については吉田家と愛弟子たち5《高杉晋作ー2》に続けます。
ご精読ありがとうございました。

吉田松陰と愛弟子たち3 《久坂玄瑞-2》 [吉田松陰と愛弟子たち]

松陰亡き後の久坂玄瑞を語るにあたり、1860年(安政7年)から
1864年(元治元年)までの4年間はまさに怒涛の時代で、この4年
間をしっかり時系列で確認しておかないと久坂玄瑞や高杉晋作の
行動の理解もあやふやになり兼ねないと思われるので一度整理し
ておこうと思います。



1858年(安政5年)6月大老・井伊直弼による日米修好通商条約が結ばれます。



安政の大獄が始まります。



1859年(安政6年)10月27日井伊直弼による安政の大獄に連座して吉田松陰が

             刑死します。


       


さてここから・・・・・・・・。






1860年(安政7年)3月3日 桜田門外の変 井伊直弼が襲撃を受け死亡。





※この当時、過激攘夷運動の筆頭は水戸藩でした。
 井伊直弼も安藤信正も水戸浪士に襲撃されています。





 この水戸藩ですが攘夷運動の指導者であった藤田東湖を亡くした後、
 藩内党争が激化し、攘夷運動が下火になっていき、時勢の中心から後退
 していきます。




※この時期、久坂玄瑞は師・吉田松陰の草莽崛起論(そうもうくっきろん)
 を実践すべく諸藩の有志と横のつながりを深めている最中でした。




 1861年(文久元年)には江戸で長州・薩摩・土佐藩の有志による会合を開いて
 います。この会合には有名な土佐の武市瑞山(タケチズイサン)も参加しています。
 武市半平太の名前のほうが有名ですね。




※1861年(文久元年)に長州藩の執政の一人である長井雅樂(ナガイウタ)が藩主・
 毛利敬親(タカチカ)の求めに応じ「航海遠略策」を献策しています。




 この「航海遠略策」は正に正論中の正論で、正式な藩論となりかけますが、
 久坂玄瑞以下の尊王攘夷派の血気集団は気に入りません。
 所詮、幕府のみが利益を得る体制に変わりがない、というのです。




 また師・松陰の江戸召喚や刑死も長井雅樂が関係していると考えた久坂以下の
 松陰門下の長井雅樂に対する憎しみは尋常ではありません。




 長井雅樂の暗殺を企てたり、もう一人の執政・周布政之助(スフマサノスケ)を口説き
 に口説いてついに長井を失脚・切腹に追い込んでいます。





 
1861年(文久元年)7月ついに長州藩の藩論は即今攘夷主義でまとまります。
          長州藩をけん引するのは松陰門下の久坂玄瑞らです。





1861年(文久元年)11月久坂玄瑞は有志11人で政治結社「御楯組」(ミタテグミ)を
          結成します。




 
1862年(文久2年)1月15日 坂下門外の変 老中・安藤信正が襲撃され負傷し、
            失脚します。2度の幕閣襲撃は幕府の権威を著しく
            低下させるものになりました。





※老中・安藤信正は井伊直弼の開国路線を引き継ぐとともに朝廷との関係改善
 のため公武合体策を推進していました。






1862年(文久2年)2月和宮降嫁(カズノミヤコウカ)





※公武合体策の一環として孝明天皇の異母妹の和宮が江戸に下り第14代将軍
 徳川家茂(イエモチ)に嫁ぎます。
 今でいえばロイヤルウェディングですね。





1862年(文久2年)の春から夏にかけて尊王攘夷志士と名乗る浪士が数多く集まる
ようになり、商家を脅して金品を巻き上げたりと乱暴狼藉が目立ったりしてきま
した。





朝廷は薩摩藩の島津久光に市中警護を任じます。





島津久光はこの時幕政改革案3か条を提言してこれが朝廷を通じて幕府に渡り、
結局認められています。




いわゆる文久の改革と呼ばれるものです。





(1)将軍が諸大名を率いて上洛し、国事を議する。

(2)沿海5大藩の藩主を大老に任じて国政に参加させる。

(3)一橋慶喜(ヨシノブ)を将軍後見職にする。
   松平春嶽(シュンガク)を政治総裁職に任じ、将軍の補佐に当たらせる。






1862年(文久2年)5月 幕府による貿易調査の随行員として長州藩から高杉晋作が
         上海に2ヶ月滞在して見聞を広めています。今の西洋文明には
         根本的に敵わないことを実感します。そして西洋の長所を早急に
         取り入れる必要性を感じて帰国します。





       帰国した高杉晋作が開国論者に変質したかというとそうではなく、
       以前にも増して強烈な攘夷論者に変貌しています。





       松下村塾系の思想家から革命家に変貌したと言っていいようです。



 
     

       この時点で高杉の胸中には倒幕の文字が明確に刻み込まれています。
       高杉の中ではそのための攘夷に変貌していたのです。
       彼にとってもはや攘夷は思想やスローガンといったものではなく、
       革命のための方便、手段に過ぎなくなったのです。
       開国して、西洋文明を積極的に導入し、産業を興し、貿易・通商を
       盛んにし国力をつけることで西洋列強からの侵略に対抗し得る国家
       体制を作り上げるためには今の幕府は倒さなければならない、とする
       考え方です。






1862年(文久2年)8月 京では一向に攘夷を実行しない幕府への批判から天皇の
         「攘夷親征」を期待する声が高まってきます。


          天皇自ら攘夷の指揮を執って欲しいという声です。





1862年(文久2年)9月14日 生麦事件が起きます。


       薩摩藩の行列の前を馬に乗った英国人が横断したんですね。
       日本流の処置として無礼討ちしてしまいます。
       1人死亡、2人が大怪我を負います。
       幕府はこの賠償金10万両を支払うことになります。






1862年(文久2年)9月24日 会津藩・松平容保(カタモリ)が京都守護職に就任します。





1862年(文久2年)10月12日 朝廷は破約攘夷を督促するための勅使を派遣します。





1862年(文久2年)12月12日 久坂玄瑞ら御楯組が江戸・御殿山にある英国公使館
            を焼き討ちします。
            幕府に対する揺さぶりですね。






1863年(文久3年)は尊王攘夷運動の全盛期です。その中心にいたのが久坂玄瑞
でした。玄瑞らは朝廷内に尊王攘夷派の公家を操り、朝廷をも動かす勢いでした。
まさに「長州の天下」の感がありました。




 

1863年(文久3年)1月27日 玄瑞は京・東山で諸藩のそうそうたる有志を招いて
            会合を主催しています。
            熊本藩の宮部鼎三(ミヤベテイゾウ)や土佐藩の武市瑞山
            (タケチズイサン)も出席しています。






1863年(文久3年)2月 玄瑞は同藩の寺島忠三郎と熊本藩の轟武兵衛(トドロキブヘエ)
          を引き連れ、関白・鷹司輔熈(タカツカサスケヒロ)を訪れ、建言書
          を提出しています。






          その中で、攘夷期日の決定、言路洞開(げんろとうかい)を
          訴え、もし聴許がなければ300余人の同志が一斉に決起する
          と脅しています。






          玄瑞、朝廷に対し上から目線ですね。






          あわてた朝廷は将軍・家茂に緊急上洛を命じます。
          玄瑞が将軍を引っ張り出したんですね。






※言路洞開 上位の者が下位の者の意見に耳を傾けることをいいます。 
      ここでは朝廷への建言の許可を意味します。






1863年(文久3年)3月 上洛した家茂は「5月10日をもって攘夷を実行する」旨の
          奉答書を苦し紛れに提出します。各藩にもこれは通達される
          ことになります。



         
          幕府の命令で攘夷を決行する大義名分を得た久坂らは急ぎ
          長州へ戻り戦の準備にかかります。





1863年(文久3年)5月10日 長州藩は外国船舶に攻撃を行います。

            下関事件です。






1863年(文久3年)8月15日~17日 薩英戦争







※下関事件 5月10日関門海峡において長州藩は、アメリカ商船を皮切りに23日に
      フランス艦船、26日にオランダ艦船を次々に砲撃。





      不意打ちによる緒戦は確かに戦果を上げましたが、米仏艦船による
      用意周到な報復攻撃を受け長州海軍は全滅し、早くも制海権を失います。





      また,陸戦隊が上陸して砲台は占拠され破壊されました。近隣の村落も
      焼き払われ屈辱的完敗を喫しました。





      また、この戦いを通じて普段威張り腐っていた藩士(正規兵)が全くもって
      実戦の役に立たないことが判明します。
      高杉晋作は農民・町民・下級武士からなる「奇兵隊」を創設していきます。


     


      ちなみに、バカ正直に攘夷決行したのは長州藩だけでした。
      

     





※薩英戦争 生麦事件で英国は薩摩藩に対し、犯人の逮捕と処罰、および遺族
      に対して25000ポンドの妻子養育料を要求。





      薩摩藩はこれを拒否。





      8月15日、16日の戦闘において、薩摩側は甚大な被害を被りつつも
      薩摩藩砲台の意外な善戦で当時世界最強の英国艦隊の旗艦ユーライ
      アラスに多大の損害を与えた。


      英国は事実上の勝利をあきらめ、17日、横浜に向い、薩摩から撤退
      しました。


      世界の有力新聞がこの模様を報道。
      「日本 あなどるなかれ」と伝えられたそうです。


      これは日本にとって大きな収穫だったんじゃないかと思います。


      中国や他のアジア諸国とはちょっと違うよ・・・という印象を与えた
      ことでしょう。


      11月15日幕府と佐土原藩の仲介により英国と講和します。
      薩摩は幕府から2万300両を借用して支払います。
      ただしこれを幕府に返済することはありませんでした。



      講和条件の一つである生麦事件の加害者は「逃亡中」として処罰されず
      じまいでした。


      
      この戦争はそもそもは攘夷の為のものではなかったのです。



      英国による損害賠償請求が発端の英国側から仕掛けてきた報復戦争でした。



      薩摩藩はこれを受けて戦い、英国艦隊を結果的には退けたことになります。
      この戦争を契機に薩摩は英国との友好関係を深めていきます。

     


1863年(文久3年)8月18日の政変  文久2年から3年にかけては京における長州藩の勢いは
     
      他を圧倒していました。宮廷内で過激攘夷の公家を掌握し、彼等を通じて
      天皇を動かしていました。



      久坂玄瑞を中心とする松下村塾門下たちによって公家を操り、「勅諚
     (ちょくじょう)」を乱発し、この勅諚の権威で幕府や薩摩、会津その他
      の雄藩を抑え込んでいました。




まさに「長州の天下」の感があったのです。




      しかし、この長州を密かに敵視していた勢力がありました。




      薩摩藩です。




      薩摩藩のこの時点での藩論は「尊王攘夷」&「公武合体」です。
      「尊王攘夷」という点では長州藩と同じです。
      長州藩にしてみれば薩摩藩も同志のような感覚でみていたことでしょう。

 
      ところが薩摩藩は長州藩に対して強い不信感と嫉妬心を抱いていたのです。



      「長州人の尊王攘夷は現幕府を倒して長州幕府を創るための隠れ蓑ではない
      だろうか?その道具として尊王攘夷を使っているにすぎないのでは?」




      尊王攘夷運動の全盛期を牽引する長州藩に鋭い嫉妬心と競争心を持っていました。
      長州に先を越されている、との不快感も強かったのです。




      怨念とも思えるこの思いが佐幕派の代表格ともいえる会津藩との結託を生みます。
      何としても長州藩を出し抜きたかったのですね。




      薩摩藩と会津藩が密約のもと、宮廷工作をしたところ、意外なことに孝明天皇が
      長州藩の暴走的な行動にきわめて強い不快感を抱いていることがわかり、
      むしろ薩摩藩や会津藩の穏健さを好ましく思っていることがわかったのでした。




      そこで薩摩藩と会津藩は天皇を密かに自分たちの陣営に引き込む秘密工作を
      行った後、8月18日早暁、にわかに全ての宮門を薩摩・会津の武装兵で固め、
      「勅諚である!」として長州系の過激攘夷公家と長州藩士の入門を禁じ、さらに
      長州藩そのものを京の都から追い落としてしまうという大クーデターを
      やってのけます。




      これが世に言う「八月十八日の政変」です。



 
      一夜にして長州藩は政権の舞台・京から出て行かなければならなくなりました。
      なにしろ「勅諚」には逆らえません。




      口惜しさを噛み締めながら一旦長州に戻ります。
      この時、長州藩とともに動いていた公家7人も長州へ同行します。



    
      これが世に言う「七卿落ち」です。




      このクーデターを裏で操ったのが薩摩藩だとわかり、以後、長州藩は薩摩藩を
      仇敵のごとく憎み始めます。




      京に残留した桂小五郎がさかんに雪冤工作(せつえんこうさく)を試みますが
      事態は一向に好転しません。



      完璧なクーデターでした。 


    

     ※雪冤工作 無実の罪を明らかにして身の潔白を明らかにすること。





      長州藩は尊王攘夷運動の主導者の位置からまっさかさまに蹴落とされてしまった
      わけです。

     





      この後、長州藩では自重論と直ぐにも京へ進撃して再度の雪冤工作を行おうとする
      意見の対立が生じます。




      
      雪冤工作が功を奏しない場合は薩摩藩と会津藩との戦をも辞さない構えの
      進撃を企図します。



      
      京にいる桂小五郎からの上申もあり、周布政之助や久坂玄瑞の必死の自重論で
      一旦は無期延期に決定しましたが、一人どうしても言う事をきかない男がいました。
      来島又兵衛(キジママタベエ)その人でした。




      来島又兵衛は正規兵に頼らない武闘集団を組織します。
      鉄砲撃ちの猟師の狙撃隊。
      諸国から流れ込んで入る浪士を中核にした遊撃軍。
      神主(かんぬし)から成る神祇隊(じんぎたい)。
      僧侶たちから成る金剛隊。
      力士たちから成る力士隊。
      百姓たちから成る郷勇隊。
      町人たちから成る市勇隊。

      来島又兵衛はこれら約600名を組織して出発準備を整えていきます。




      藩庁の命を受け、高杉晋作が来島又兵衛の自重を促すべく3日間に渡り説得
      しますが聞く耳を持ちません。




      この時、高杉晋作は藩の政務役(執政)という重職にありましたが、来島又兵衛との
      対談に腹を立て自ら再び脱藩し単身京へ上ります。




      京滞在中、高杉晋作はなんと藩主直々の手紙を受け取っています。
      「急ぎ、帰国しなさい」という内容です。
      脱藩はなかったことにしてあげようとする藩主の思いやりでした。




      晋作は涙を流しながらこれには従えない旨を伝達役の上使に伝えます。
      晋作は土佐の浪士・中岡慎太郎とともに薩摩藩主代理の島津久光暗殺計画を
      画策していました。



      
      死を決して島津久光暗殺の機会を窺いましたが、ついにその機会に恵まれず、
      晋作は帰藩することになります。




      帰藩早々、晋作は「脱藩の罪により、入牢(じゅろう)を申し付ける」という
      意外な藩命を受け、野山獄に収監されてしまいます。





      これは京進撃を目論む過激派集団の企み(たくらみ)でした。
      うるさい晋作がいては邪魔だ・・・牢にでも入れておけ・・・というところでしょう。



      
      久坂玄瑞ら松陰門下のあの過激さを凌駕(りょうが)する勢いの過激派行動集団を
      なだめ、自重させようと久坂らは必死になります。



      長州藩に追い落としをかけた薩摩・会津憎しの藩感情と朝廷に何とか陳情しよう
      という切ない藩感情が入り乱れて藩を上げての超ヒステリー集団が出来上がって
      いました。




      久坂玄瑞、周布政之助らが必死に抑えにかかります。
      しかしあるきっかけが起こります。




      池田屋事件です。






1864年(元治元年)6月5日 池田屋事件

      京都三条木屋町の旅館・池田屋で会合中の長州藩・土佐藩・熊本藩らの尊王攘夷派
      の志士たちを新撰組が急襲した事件。





      これまで数多くのTVや映画等でさんざん放映されたり、時代小説とかでもたくさん
      描かれていて知らない人はほとんどいらっしゃらないんじゃないかな、と思います。




      前年の八月十八日の政変により長州藩は京から追い出され、朝廷では公武合体派が
      主流となりました。




      野に下った形の尊王攘夷派の志士たちは勢力挽回を図るため、祇園祭の前の風の
      強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、
      一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」という
      計画を練っていました。





      この計画を実行するかどうかを協議する会合が開かれるという確実な情報を手に入れた
      新撰組が入手して池田屋を急襲するという事件でした。





      この夜の切り合いで熊本藩の宮部鼎三(ミヤベテイゾウ)や長州藩の吉田稔麿(トシマロ)ら
      有力な志士の多くが死亡しました。
      長州藩士だけでも10名以上が討死・刑死しています。





      宮部鼎三は吉田松陰の親友でした。
      吉田稔麿は松陰門下の人間でした。





      その翌日も攘夷志士掃討作戦が実施され20余名が捕縛されました。
      この市中掃討でその任に当たった会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の即死者
      を出した、といいます。




      凄まじいばかりの激闘だったんですね。即死ですよ。




      以前、ある本で読んだのですが、刀によって傷ついても簡単に直ぐ死亡することは
      極めて稀だそうです。死ぬまでには少し時間がかかるのが普通だそうです。
      即死者がこんなに出る切り合いは尋常でないことが容易に想像できます。



      

      この池田屋事件は長州過激派をさらに刺激してしまいます。
      いえ、これら過激派行動集団を抑えようと努力していた久坂玄瑞らをも激怒させて
      しまいます。



      

      長州藩の各港から軍船が船団を組んで次々に出港していきます。
総勢2000名を超す大部隊でした。
      藩を上げての陳情部隊であったわけですね。





      この時、高杉晋作は自宅監禁、周布政之助も逼塞を命じられて何もできない状況
      でした。





1864年(元治元年)7月19日 禁門の変(蛤御門の変)ハマグリゴモンノヘン



      6月下旬、長州軍は京での3ヵ所の布陣を終わり、それから20日以上もの時間をかけ、
      上洛の理由の説明と長州藩としての真意について陳情活動を行っています。



      
      この20日間は防衛する幕府側にとって大変都合のよいものになりました。




      長州軍の駐屯する3ヵ所だけでなくその周辺を数多くの諸藩で防衛線を築きます。
      また御所の防備も油断なく済ませています。





      どう考えても御所まで行き着くのは困難な状況です。




      しかし思想に殉じる発狂の虜(とりこ)になっている長州軍は狂ったように
      突撃していきます。



      
      各所で長州軍は討ち取られていきますが、来島又兵衛率いる約800名の部隊が
      御所にたどり着きます。




来島部隊は公卿門(くぎょうもん)の会津・桑名・一橋の防衛部隊を蹴散らし、蛤御門に突入します。
      門扉を叩き破って乱入するや急射撃を行うと抜刀突撃に移ります。




      日本最強と言われていた会津の藩兵までが逃げ出し始めた頃、薩摩の部隊が御所に到着。




      小銃と砲3門で銃撃し、砲撃を開始すると会津・一橋の部隊が勢いを盛り返し、来島部隊を挟み撃ち
      する形勢になりました。




      この状況下で来島部隊は小一時間近くも奮闘しています。




      この時の薩摩部隊の将は西郷吉之助(キチノスケ)つまり西郷隆盛。
      西郷の指示で来島又兵衛が狙撃され落馬し、自刃して果てると長州の潰走が始まりました。





      久坂玄瑞は兵600を率いてやっとの思いで戦場にたどり着いた時には来島が既に戦死した後
      でした。




      玄瑞はこの惨状の中でなお陳情しようと鷹司(タカツカサ)邸に乗り込み、長州の真意を述べようと
      試みたが拒絶されます。




      この時すでに鷹司邸は諸藩の兵が取り囲み、攻撃を始めています。




      玄瑞率いる小部隊ではどうにもならず、乱戦の末、長州人の大半がこの屋敷の内外で戦死。
      残りの兵に玄瑞は退却を命じます。




      玄瑞は残り、松下村塾での同門の寺島忠三郎とともに腹を切って死にます。
      享年25歳。
      松下村塾きっての英才の若すぎる死でした。




      兄・玄機(ゲンキ)の影響を受け、救民救国の志をもって、松下村塾に学び、師の提唱した
      草莽崛起論(そうもうくっきろん)を行動のもとに実現し、長州藩を尊王攘夷のリーダーに
      押し上げた若き英才の痛恨きわまりない死でした。




      切腹前、やはり松下村塾同門の入江九一が共に腹を切ろうとするや玄瑞はそれを押し止め、
      帰国して今日のことを藩主に報告するよう頼んで逃がそうとしました。




      脱出を試みた入江九一ですが燃え盛る鷹司邸の穴門から出たところを待ち伏せていた越前・
      福井藩の兵の槍(やり)で顔を思い切り突かれてしまいます。




      この衝撃で両眼球が飛び出し、脳漿(のうしょう)が後頭部を流れ、みるも無残な死体と
      なりました。
      戦闘の激しさを物語る象徴的なシーンです。




      この戦闘で松陰の門弟の多くが死んでいます。





      またこの暴挙で長州藩は正式に朝廷から「逆賊」の汚名を着せられることになります。

      ですが長州においては尊王攘夷熱は冷めることなく噴火し続けます。

      この後、砲台を修復し、あろうことか再び関門海峡を封鎖します。

      そして米・英・仏・蘭の四か国連合艦隊との戦い。
      さらには第一次長州征伐と藩未曾有の危機が押し寄せるのです。





1864年(元治元年)8月5日~7日 英・仏・米・蘭の四か国連合艦隊による第2次報復攻撃
               が行なわれます。

               いわゆる下関戦争または馬関戦争と呼びます。

               この時、連合軍は軍艦17隻を揃えて攻撃に来ました。





前年の外国勢力による報復攻撃の後、長州藩が砲台を修復し再び海峡封鎖を
      実行した為めでした。





      関門海峡(馬関海峡)の海上封鎖により特に英国の経済損失が大きく、その
      報復措置で行われた戦争でした。


       秘密裡に英国に留学していた長州藩士伊藤俊輔と井上聞多は四国連合による
      下関攻撃が近いことを新聞で知り、戦争を止めさせるべく急ぎ帰国の途につ
      きます。





      イギリスの国力と機械技術が日本より遙かに優れている事を現地で知った
      二人は戦争をしても絶対に勝てないことを実感していました。





      伊藤と井上は三カ月かかって6月10日に横浜に到着。
      英国公使オールコックに面会して藩主を説得することを約束します。




 
      オールコックはこれを承諾し、二人を軍艦に乗せて、豊後国まで送り、
      長州へ帰させた。





      二人は藩庁に入り藩主毛利敬親と藩首脳部に止戦を説いたが、長州藩では依然
      として強硬論が中心であり、徒労に終わってしまいます。





      下関砲撃が行われ、前田および壇ノ浦の諸砲台を攻撃し、前田浜に陸戦隊を
上陸させ砲台を占拠、これを破壊しました。




      
      1863年の戦闘を下関事件、1864年の戦闘を四国艦隊下関砲撃事件または
      馬関戦争もしくは下関戦争と呼んだりもします。





      1864年8月18日講和成立





      下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、
      悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いの
      5条件を受け入れて講和が成立しました。





      ただし、賠償金については長州藩ではなく幕府に請求することになります。
      巨額すぎて長州藩では支払い不能ということもありますが、今回の外国船への
      攻撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した命令に従ったまでという名目で切り抜け
      ます。





      講和の全権使節は高杉晋作でした。






      講和の談判の中で彦島の租借を強引に申し入れてきたのに対し、これを高杉は
      断固として拒否し、彦島が香港のような外国の領土になるのを防いだという逸話が
      残っています






      高杉晋作でしかできない交渉でしたでしょう。





      2度の敗戦を経験し、外国武力の威力を肌身で知った長州藩は「攘夷」というものが
      現実的に困難であることを初めて実感します。
      以後、英国に接近して「倒幕路線」へと180度舵を切り替えていくことになります。


      





1864年(元治元年)11月~12月 第一次長州征伐





      馬関戦争の講和成立の少し前から朝廷と幕府の間で長州征伐計画が完成に向かって
      いました。
      11月11日を期して配備完了。18日に攻撃開始を予定していました。




      長州征伐がある、という情報が流れるや長州藩の政局が一転するのです。




      ここ3年程の間は長州内での政権は尊王攘夷派の正義党が握っていました。
      政務役・周布政之助をトップに置き松陰の門人たちがその子分のように存在して
      いました。久坂玄瑞しかり、高杉晋作しかり、桂小五郎しかりです。
      もちろん、正義党に属する多くの官僚たちがいました。




      対立する俗論派は椋梨藤太(ムクナシトウタ)を代表格にいわば野党の立場にいました。




      攘夷実行の下関事件で屈辱的完敗(1863年5月)
      八月十八日の政変(1863年8月)
      禁門の変(1864年7月)
      馬関戦争(1864年8月)




      この1年3か月という短い期間に長州攘夷派は手ひどい目に会っているのですが、
      長州征伐の情報が流れるや「それみたことか」と騒ぎ出したのが佐幕派の
      椋梨藤太率いる俗論党です。




      息を吹き返した俗論党は正義党の官僚の多くを逮捕・投獄・刑死に処していきます。
      政務役・周布政之助はそれに先立ち1864年9月25日に割腹自殺しています。
      高杉晋作は九州へ難を逃れます。



      
      長州征伐にあたり薩摩の西郷隆盛は政略的意図から攻撃開始に反対します。
      西郷は長州の俗論党に正義党を弾圧させ、幕府に完全恭順するよう画策します。
      俗論党主導となった藩政府は禁門の変の首謀者とされる3家老を切腹させ、
      4任の参謀を斬首刑に処しました。




      藩主父子が萩場外に蟄居させられ、山口城は破却されました。
      また長州藩が保護していた公家たちの福岡移転も了解されると征伐軍総督の
      前尾張藩主・徳川慶勝(ヨシカツ)は配備した諸国の藩に対し、幕府首脳との相談なしに
      兵の解散を行ってしまいます。



  
      長州藩は一戦もすることなく薩摩・西郷隆盛の思惑通りに動かされていくかに
      見えました。
      長州の尊王攘夷の火が消えかかったかに見えた時、わずか80人の奇兵隊の隊士
      を率いて佐幕派になりかけた長州藩政府を覆し、再び長州に攘夷の火を燃え上
      がらせたのは九州亡命から引き返してきた高杉晋作でした。    

      


この後、政局は高杉晋作による功山寺挙兵、保守派政権打倒→第2次幕長戦争→戊辰戦争
へと動き始めます。
言うなれば幕末終盤に向かって西から東への大攻勢が始まります。




とにかく久坂玄瑞が活躍し、そして散っていったこの短い期間のあまりの事件の多さに
こんがらがってしまわないようにと思い、解りやすくを念頭に、かつ、簡明にを心掛けて
みましたが如何だったでしょうか?
今後も更に見返しまして加筆訂正していきますが、お気づきの点等ありましたらお知らせ
ください。





長い文章になりました。
ご精読ありがとうございました。


なお、久坂玄瑞および高杉晋作についての詳細は
別項または別ブログで記していきたいと思います。

      

攘夷運動家たちの開国反対の理由 [その他]

攘夷運動家たちの開国反対の理由




攘夷を唱える運動家たちの根拠は幕府の弱腰外交に対する民族的プライドを傷つけられた
ことが原因の発端でした。

ですが、条約の内容が知れ渡るようになるとさらに開国反対運動は激化していきます。






開国貿易論は貿易亡国論に等しい、と攘夷運動家たちは考えていました。
開国し、貿易を行えば外国に対して売る物産が少ない日本は外国の物産を購入するばかり
で、日本の金(かね)が湯水のごとく海外へ流出していってしまう。




また、少ない物産を貿易のため外国に売りさばいては物価が上がりついには日本は
経済的に破滅せざるを得ない。
幕末での現状では当然の懸念材料でした。
このことも攘夷を唱える理由になっていました。




実際、日米修好通商条約によって通商が解禁になると生糸や茶の輸出が激増し、国内
物資の不足を招き、これに商人などによる買い占めも手伝い、急激な物価高騰が起きて
きます。
これにより下級武士や庶民生活の生活は窮乏していきます。




また、日本の保有する金(きん)がいいように海外に持ち出されてしまいます。




当時、日本国内では金と銀の交換比率が1:5でしたが、海外では1:15だったのです。
外国商人や船員までもがこれに着目し、わずかの銀を持ち込んでは大量の金を持ち出し、
自国や他国に持ち込んで簡単に大儲けしています。単純にいきなり3倍の利益を彼等は得
ていたのです。
貴重な金貨がみすみす大量流出していたわけです。




このような状況下で一人貿易の利益を享受するのは幕府のみで、諸藩に対しては開港の
許可を与えず、諸外国に対しても幕府との独占貿易ということで了解させていました。
これでは幕府の武権を頼りに攘夷運動していた活動家も嫌気がさしたことでしょう。




もし、幕府が諸藩の港を開港させ、その貿易利潤を広く与えていく考えの元に開国に
踏み切っていたならこれほどまでの大反対運動は火を噴かなかったと思われます。




しかし幕府にとって大事なのは徳川家一家の安泰と利益であり、それを守るためにのみ
汲々として今日に至っています。




貿易によって日本国内の物産がなくなり、経済が混乱することに対する対策として物産
を新たに作っていく方法を講じるにせよ、徳川幕府のもとではそれも幕府のためだけの
施策となっていくであろう、と考える時、「そんな幕府は要らない」という思いがふと
頭をよぎるのではないでしょうか?




意識の水面下で「倒幕」の二文字が揺らぎ出し始めます。




特に長州藩においては関ヶ原の敗戦以来の徳川憎しの潜在意識が残っていたのではない
でしょうか?
藩士の多くは理由も分らずにですが、しきたりであるが如く西枕で寝ていたそうです。
足を東に向けて寝る・・・つまり江戸・徳川に足を向けていたというわけ。




久坂玄瑞ら長州藩士にして最初に「倒幕」が意識されてきます。



攘夷論解説 [その他]

攘夷論解説




単純攘夷論・・・西洋人を獣類、侵略者と決めつけ、西洋列強の技術
        文明の協力さと恐ろしさを知らず、日本島をもって
        一刀両断できると信じ切っている幻想論。




小攘夷論・・・異人など切ってしまえ。異人など日本に入れるな。
       という単純な外国人を排斥したいとする考え方。
       未知である外国の力に対する恐怖と日本人と
       してのプライドが引き起こす感情論。

       幕府が諸外国と締結した不平等条約を破棄させた
       いとする感情論。




大攘夷論・・・小攘夷論のような破約攘夷論ではなく、ここはむしろ
       広く世界に通商航海し、世界の実情実力を確認し、
       もって国力を高めたうえで諸外国に対抗していこう
       とする考え方。




尊王攘夷論・・・天皇のもとに団結し、夷敵を撃ち払おうという考え方。
          最終的に薩長によるすり替えで倒幕の代名詞となる。

(最終段階で即今攘夷の意思は既に持っておらず、攘夷を
        行わない幕府を倒す、という論理のすり替えを行って
        いますね。ここに至って、攘夷も開国も思想や主義でなく
        幕府打倒のための戦略と化しているわけです。)



吉田松陰の攘夷論  



時期としてはペリーが再度来航し、威圧的に日米和親条約の締結を迫った頃のこと。




他の多くの仲間同様に「断固、屈するなかれ」という攘夷論
でした。




ただし松陰は鎖国主義者ではなく、海外の実情を把握し、そ の上で対策を練るべきである、という考え方をしていました。




ただ、強要されて屈服するのは一国一民族の恥であり、敗北
であり、それでは日本民族は自立の生気を失うであろうという
民族的自尊心を背景にしていました。




脅されて調印させられるなど言語道断であり、それくらいなら
断固戦うべきである、という主張ですね。




基本は大攘夷論ですが民族的自尊心という面からは小攘夷論 というところでしょうか。


        
         
しかも、戦いとなった場合松陰は「勝てる」と考えていました。
『海戦策』という必勝策を書き上げ、藩主に奉っています。




内容は先ず海戦を行い、次に内陸戦を行い、それで終わる、と
いうもので、50艘の小舟で夜陰に乗じて敵艦に近づき大砲で火
災を起こし小銃で騒ぐ異人を狙撃し、ついで敵艦に乗り込み白
兵戦を行い艦ぐるみ奪ってしまう。




敵艦がこの勢いに驚いて逃げればそれでよし、逃げずに陸戦隊
を上陸させてくるならば地の利を生かしたゲリラ戦で敵を殲滅
するは極めて容易である・・・というものでした。




さらには、敵は本国に帰り体制を立て直してほぼ1年の後に大挙
して襲来するであろう。
その間に洋式兵器を整え、日本中の武士に洋式訓練をほどこして
敵を待つ、というものでした。




実はこの松陰理論が松陰亡き後の攘夷運動の理論的支柱になり、 外国人に対して攘夷を行って、それがために戦争が起ころうとも 必ずや勝てる、という妄想を植え付けることになってしまいます。




そのため攘夷志士たちは後にすさまじいばかりの攘夷運動を展開
していきます。




ただ、この時点においては「倒幕」という考え方はまだ出てきま
せん。日本の武権を統括しているのは徳川幕府ですから、幕府の
尻を叩いて立ち上がらせ、外国を打ち払わせるという考え方でした。



後に松陰は幕府にも諸大名にも公家にも期待できないとわかると
草莽崛起論(そうもうくっきろん)を提唱します。




幕府も公家も諸大名も当てにできないならば、諸藩の有志が連携して
自主的に攘夷を実行すべきである、という意見です。



久坂玄瑞はこの師の教えを体現すべく江戸と京で精力的に活動し、
禁門の変で自刃して果てる迄、久坂玄瑞は師の攘夷論を信じ攘夷運動
を展開していきます。




しかしながら長州藩が行なった四か国連合艦隊との闘いにおいて
無惨なばかりに敗れます。
薩摩しかりです。




この松陰戦術が現実の戦争において空論にすぎないことが実証さ れてしまいます。



          
ここにおいて松陰戦術は理論的指導能力を失い、単なる攘夷運動から     
開国を考慮に入れた倒幕運動へと変化していくのでした。



          
高杉晋作は四か国連合艦隊との闘いまで松陰の攘夷論を信じて戦い
ます。後に上海に遊学して列強の文明の強さを肌で知り、攘夷から
倒幕へと進路変更をしていくのでした。


         
          
倒幕のための大義名分が尊王攘夷でした。
この段階では誰も本気で今までの攘夷など考えていなかったんです。



          
考えていたとすれば徳川政権を兎に角早く倒して、議会主導の国家
体制をつくり、一日も早く富国強兵を実現して列強の侵略に対抗で
きる実力をつけることだったでしょう。




大攘夷論ですね。



          
列強と戦って万に一つも勝ち目がないことが分かった時点で歴史は
そのベクトルを180度変えていくのです。



          
この時点で徳川家が一番の貧乏くじを引くことになってしまいました。



          
幕府にすればその情報収集能力でいち早く列強の力を認識しており、
現状とても戦にならない認識のもと、開国に踏み切るわけですが、
周囲からは攘夷、攘夷のプレッシャーを受け、いざ大政奉還してみたら
維新政府は攘夷どころか外国と通商しているではありませんか。
外国を研究して追いつこうとしているではありませんか。


          

屈辱的開港と屈辱的不平等条約と異国という未知の勢力に対する
無知ゆえの恐怖心、中国はじめ侵略されたアジア諸国の二の舞に
なるやも知れぬ恐怖心・・・こうした国民的プライドと植民地化されるや
も知れぬ恐怖心が攘夷、攘夷の嵐を吹き起こしました。

          


幕府に対する期待外れ感、絶望、怒り。
松陰流の「夷敵恐るるに足らず論」
浮上してくる尊王思想。
外国と戦って知った真実
国体改善の必要性の実感
徳川家邪魔 徳川幕府邪魔
無理やりの倒幕の為の大義名分の尊王攘夷論


          

こんな流れかと思います。
          


          
天皇のもとに議会政治を行い列強に対抗できる国家体制を作る方向へと
歴史は動きます。
「攘夷」という言葉は「列強に対抗できる国家体制作り」へとすり替わ っていったのです。


          
徳川家を議長に議会を開催するという意見もあったのですが、薩摩・長州の
革命軍にとっては徳川家という存在が感情的にも邪魔くさいものだったのでしょう。
恭順の意を表している最後の将軍・徳川慶喜を追い詰めていきます。






こういう認識ですが間違っていたら是非ご指摘ください。





攘夷志士たちの怒りのもう一つの原因





日米和親条約で下田と函館が開港されますが、そうなればそこで貿易が行われるわけで
すが、この2か所は幕府の直轄領なんですね。




ということは幕府だけが貿易の利益を享受するわけで他の諸大名には何の恩恵ももたらしません。




幕府にしてみれば次の日米修好通商条約での開港地も直轄領にしておけば幕府としては
何の問題もない、ということになります。




こういう点も幕府非難の根拠になっていたんですね。
幕府主導の開国など幕府だけのものに過ぎない・・・そんな幕府など要らない・・・
「倒幕」の必然性が発想されてくるわけです。

吉田松陰と愛弟子たち2 《久坂玄瑞》 [吉田松陰と愛弟子たち]

吉田松陰と愛弟子たち2 《久坂玄瑞》





吉田松陰の愛弟子は数多くいますが、とりわけ久坂玄瑞は松陰が最も気に入り、
最も期待をかけた人物でした。
玄瑞は高杉晋作とともに松陰門下の双璧といわれ、また四天王の筆頭とも
言われていました。
松陰はその人柄と才を愛し、末の妹の文(フミ)と娶せて(めあわせて)います。



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http://www.takasugi-shinsaku.com/taka202.html





1840年(天保11年)藩医・久坂良廸(ヨシミチ)の次男として生まれています。
幼名は義助(ギスケ)。
松陰より10才下になりますね。




久坂家は代々長州藩の御典医に家柄で家禄は25石。
幼くして両親を亡くしています。
兄の玄機(ゲンキ)は諸人が目を見張る飛び抜けた秀才で、はじめ家学の
漢方医学を学びますが、後に蘭医学も学びます。特に語学に優れていた
ということです。
藩きっての蘭医でした。





この兄の玄機ですが、洋学を学びながらも強烈な攘夷論者で、欧州列強の
帝国主義を論じ、国防の急務たることを力説していた人でした。
松陰とは直接相まみえたことはありません。





しかしこの兄の存在が大きく玄瑞に影響を与えたことは間違いないでしょう。





松陰が下田で捕えられた頃ですから1854年春でしょうか、藩主の命により
海防対策書を書き上げるため二昼夜不眠で書き続け、この疲労がたたり、
病気になり急死してしまいます。





玄瑞14才の元服早々で家を継ぐことになります。
少年の身ではありますが藩医の家を継ぐため頭を剃り、名を義助から玄瑞に
変えることになります。






兄も秀才でしたが弟の玄瑞も幼少時より秀才の誉高い少年でした。
はじめ城下の私塾に通った後、藩校・明倫館に学んでいましたが
医学を学ぶため藩の医学所に入ります。





しかし玄瑞の本当の志は医者になることではなくて「天下を救う」ことに
ありました。亡き兄の意思を継ぎたい。
これが玄瑞の心だったのです。





後に松下村塾に入り、松陰の薫陶(くんとう)を受け、頭角を現わします。





松陰同様、玄瑞は17才の頃、見聞を広めるため九州遊学の旅に出ています。
そして熊本を訪れた際、宮部鼎三(ミヤベテイゾウ)と出会います。
宮部鼎三は松陰が絶対の信頼と友情を持つ無二の親友でした。
宮部鼎三から松陰が傑物(けつぶつ)であることを聞かされた玄瑞は松陰に
関心を持つようになります。






長州に戻った玄瑞は直ぐには松陰のもとを訪れはしませんでした。
松陰の器を確かめるべく時勢を論ずる挑戦的な手紙を何度も送り付けます。
そして数度の手紙のやり取りを通じてしだいに松陰という人物に傾倒して
いくのでした。
入門後まもなく松陰から「防長年少第一流の人物にして、固より(もとより)
亦(また)天下の英才」と評されています。






松陰はこの血気盛んな若者をすっかり気に入り、また、玄瑞が幼くして家族
を失い、天涯孤独の身であることを不憫に思い、末妹の文と結婚させようと
強く勧めます。






1857年(安政4年)12月5日 久坂玄瑞と杉文は結婚します。
玄瑞18才、文15才の時でした。





当時はこの年齢はもう一人前の年齢なんですね。
現代とは大違いです。

誰も彼もが早くからしっかりしていたのです。
また、しっかりしてないと生きていけない時代だったんですね、昔は。

仕事するにせよ、学問するにせよシビアだったんです。
間違っても引きこもりだとか、ニートなんてありえない時代です。

社会背景の違いはありますがそれにしても現代は甘ちゃんが多いように
思えてなりません。

もっとしっかりしなくってはいけないな、と自分自身も思いますが。[あせあせ(飛び散る汗)]





さて二人の新婚生活はというと新居で甘い生活を送ったのかな、と現代人
なら思ってしまいますよね。

違うんです。

玄瑞は杉家に同居するんですよ。あの手狭な杉家にです。
二人っきりの甘い新婚生活なんてものはこの江戸時代にあっては稀なもの
だったことでしょう。





玄瑞は翌年の2月には江戸に遊学することになり家を留守にします。
日米修好通商条約が調印される数か月前ですね。
世を上げて攘夷、攘夷の叫び声が溢れている時げす。
以後玄瑞は江戸と京で国事に奔走する日々を送ります。






1859年(安政6年)2月 玄瑞は長州・萩に一度戻ってきます。





この頃、松陰は老中・間部詮勝(マナベアキカツ)要撃を企て塾生たちに
協力を説いています。

しかしこの提案に乗ってくる塾生は一人もおりません。

あまりに無謀であまりに危険極まりない暴挙でしたから塾生たちは一丸と
なって諌止(かんし)します。

師の身の危険も考慮したことでしょう。
ここで玄瑞もその襲撃計画に反対します。





一番可愛がり、一番目をかけてきた玄瑞の反対に松陰には珍しく激昂し、
玄瑞に絶交を言い渡してしまいます。

玄瑞はまもなく明倫館の西洋學所(博習堂)の学生として寄宿舎生活を
送ります。

師を守るためとはいえ、松陰から絶交を言い渡された玄瑞の心は悲しみに
溢れたことでしょう。

尊敬する師からの絶交宣言は親を失った子供のように辛く、淋しく、悲しい
ものだったに違いありません。




松陰が暴発するのを防ぎたい執政・周布政之助(スフマサノスケ)は松陰を
野山獄に収監します。
こうすることで周布は松陰の身を守りたかったのです。





そうこうする内、幕府より松陰の江戸召喚命令が長州藩に下ります。




松陰が江戸へ向かう直前、玄瑞は松陰から許され師弟関係が回復します。
師と向き合い、許された喜びは束の間のこと。
死出の旅となるやも知れぬ師を見送らねばなりません。
辛い見送りとなったことは想像に難くありません。






安政の大獄に連座して師・松陰が処刑されると玄瑞はその遺志を継ぐ決意をします。



















吉田松陰と愛弟子たち 《松下村塾その成り立ちと講義のやり方》 [吉田松陰と愛弟子たち]

吉田松陰と愛弟子たち 《松下村塾》


松下村塾の成り立ちと講義のやり方について触れてみたいと思います。





1855年(安政2年)12月 松陰は野山獄から出獄を許され、杉家での謹慎生活に
入ります。





元は仏間だった三畳半の幽囚室(ゆうしゅうしつ)で最初、家族や親戚の者を
相手に学問を教え始めます。
やがて近所に住む下級藩士の子弟や身分を問わず学問への志ある若者が授業を
受けに集まり出しました。





ある意味松陰は長州における有名人ですよね。
脱藩、密航という藩と天下の大罪を犯してきた人物です。
ですが長州人の特徴的な気質として政治犯に対しては上も下も寛容なのです。
「かわいそうに」くらいの感情でしかなく、罪人として憎むという感覚がない
のです。なにせ藩主のお気に入りであり、重臣たちからも憎からず思われて
いる松陰です。
罪人だからといって松本村でひどい目に会うなど何もないんです。





さて塾生が多くなり、とてものこと幽囚室では手狭になります。
そこで庭にある物置小屋を八畳一間の塾舎に改築します。
1857年11月に完成します。
松陰主宰の松下村塾の始まりですね。



taka102a.jpg
http://www.takasugi-shinsaku.com/taka102.html





入塾希望者はその後も増え続け、塾生の数は100人を超えるまでになります。
そこで増築を余儀なくされ翌年3月には十八畳の塾舎に改築します。





改築には塾生総出で手伝い、松陰の最も幸せな時期になりました。
想像ですがワイワイ賑やかに皆んなで張り切ってやったんでしょうね。
材木を持ち込んだり、畳を調達したりしながら楽しい時間だったんではない
でしょうか。



img2599_file.jpg
http://www.hagihonjin.co.jp/blog/sb.cgi?page=0&sea...





ちなみに、松下村塾という名で学塾を最初に開いたのは松陰の叔父で松陰最大の教育者だった玉木文之進でした。





文之進が藩のお役に就き塾を閉じなければならなくなった時にこれを引き継ぎ
塾を運営し子弟の教育に当たったのは松陰の母方の親戚の久保五郎左衛門でした。
後に松陰門下となる伊藤博文吉田稔麿(トシマロ)はもともと久保五郎左衛門の
松下村塾で学んでいたものです。
したがって松陰で三代目ということになるんでしょう。





この時から江戸召喚・刑死までの期間のわずか2年間が松陰が塾生たちと接した
時間でした。
この短期間で維新の原動力となる人材を教育していったのです。





松陰は入塾希望者に対し教えることはできませんが、共に勉強しましょう
と言って誰でも受け入れました。





また、一人一人を弟子としてではなく友人として扱ったのです。
そしてお互いの目標について同じ目線で真剣に語り合ったのでした。
どのお弟子さんに対しても敬語を使いました。 また、叱りつけるとか一切しませんでした。



松陰らしい誠実と真心が感じられますね。




扱った課題の中心は孟子(もうし)の思想、日本の現状と未来、政治、外交、
そして維新をどのように実現していくか・・・。
簡単には結論の出ない課題を一人一人と一緒に考え抜き、徹底した議論を
行ないました。





昨今話題になっている白熱教室をTVで見たことありますか?
あれに近いことを膝を突き合わせて行ったわけです。
激論となることもしばしば。
徹夜の議論などはしょっちゅう。





松陰が一番教えたかったのは知識ややり方というノウハウではなく、本質とは 何か、それに基づきどう行動すべきかどう生きるかについて塾生一人一人が
自分で考えることでした。
そして自分が実現したいことについて行動してみることの大切さでした。
行動なき学問は無意味である・・・が松陰の言うところです。





火の出るような白熱教室だったのだろうと想像できます。




松陰は松下村塾の壁に次のような一文を刻んでいます。


「松下ろう村なりと雖も誓って神国の幹とならん」
(しょうか ろうそんなりといえども ちかって しんこくのみきとならん)

意味は 松本村はさびしい寒村だが、必ず日本の根幹となってみせよう。





松陰の決意と期待が込められた一文ですね。




そして松陰の予言通り、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、吉田稔麿、山形有朋(アリトモ)、
前原一誠(イッセイ)、 品川弥二郎(ヤジロウ)、入江九一(キュウイチ)などなど、幕末・明治期を
彩るそうそうたる人材が輩出されていくのです。

《吉田松陰3大事件/江戸召喚》 [吉田松陰3大事件]

《吉田松陰3大事件/江戸召喚》





ペリーのアメリカ艦船での海外渡航の夢が失敗に終わり、江戸から長州へ送られた
松陰は野山獄に収監された後、杉家での禁錮生活に入ります。





長州藩というのは幕府によって罰せられたものに対して寛容です。
勿論表立ったものではありませんが、そういう気質を秘めていたようです。

これが他藩であったら切腹ものかもしれません。
国禁という大罪を犯した松陰に厳しさを示す重臣などいなかったのです。





大人に対してその威厳性や恐ろしさを知らずに育った高杉晋作などはこの様子を見て、
ますます幕府を軽視する感情を持ったかも知れません。





さて松陰。





杉家のうちで塾を開きます。
最初の生徒は父・百合之助と兄・民治でした。

塾の噂が広まり、身分を問わず学問への志ある若い人々が集まり始めます。
その中には久坂玄瑞がおり、また高杉晋作なども入ってきます。

誰も彼もが松陰の人柄と学識に魅了され、熱心に通うようになり、物置小屋を 改修して講義室を作るに至ります。

日本と世界はどうなっているのか?
で、我々は何をどうすべきなのか?

日夜議論を闘わせ、切磋琢磨する場所ができたのです。
いわゆる私たちの知るところの松下村塾です。





その詳細はこちらをご参照ください。






さて松陰が松下村塾にて師弟合い切磋琢磨しているこの時期、幕府は威信を失い、
それまでタブーであった幕政批判が日本のあちこちで猛然と湧き起りつつありました。





ペリーによる威嚇外交(いかくがいこう)に狼狽した幕府を見て武士だけでなく民衆の多く
が一瞬にして知ってしまったのです。幕府の力のなさを。





「幕府とは、たかがそれだけのものか」

「幕府などあてにはできぬ」

「これから日本は一体どうなっていくんだ」





素朴な感情として対外敵対心幕府に対する侮辱心理が渦を巻いて世の中を席巻
します。





また、実際、江戸城を神殿かのごとく畏れてかしこまっていた諸侯が堂々と出入りし、
幕政批判を公然と行うようになりました。





その代表的人物としては水戸の徳川斉昭(ナリアキ)、外様大名として幕閣に意見するなど
あり得なかった薩摩の島津斉彬(ナリアキラ)、土佐の山内容堂(ヨウドウ)、越前福井の松平春嶽
(シュンガク)、伊予宇和島の伊達宗城(ムネナリ)などです。





また、これまで外様大名同様に幕府に対して何の発言権もなかった京の朝廷の公家たちが 居丈高になって幕府の弱腰外交を痛烈に批判しだしたのです。
もとより彼ら公家に攘夷論を吹き込む攘夷論者らに扇動された結果ですが、当時の
孝明天皇が大の異国人嫌いであったことが火に油を注ぐことにもなりました。





「弱腰にも程がある。敵の武力に屈して日米通商条約などを勝手に結ぶとは言語道断
である。なぜアメリカと一戦する覚悟でそれを一蹴しなかったのか」




最初、単純な攘夷論だったのですがその加熱ぶりに合わせて尊王主義という考え方が 一つの選択肢として浮上してきました。

政権を天皇が握るべきだ、というものですね。




しだいに幕府もこれら過激志士たちの動きを無視できなくなってきます。





幕府は老中・間部詮勝(マナベアキカツ)を京へ派遣し、公家を金銭で買収する一方、
公家に取りついている扇動家らを一掃しようと試みましたが、はかばかしくありません。




1858年(安政5年)4月彦根藩主・井伊直弼(ナオスケ)が独裁権力を持つ大老という幕府
最高位に就任するやこれら不平分子の一掃に乗り出します。





いわゆる「安政の大獄」です。





弾圧の対象は江戸で幕政批判を行った何人かの大名、京で志士たちに踊らされた
親王や公家、それと京を中心に幕府批判を行い続けた危険思想家とその運動家たち
でした。





松陰はこれらの連中の末端位に位置する存在でした。





しかし安政に大獄による探索の手は江戸から遠く離れた長州の一書生にまで
届いていたのです。





「松陰を江戸へ送れ」という幕命が長州藩に下ります。






話は多少前後しますが、この時期、松陰はその思考を変化させています。






数年前までは幕府を奮い立たせて列強に当たらせたい、と考えていました。
しかし幕府の対ペリー外交を見て絶望しました。

次いで長州藩そのものを革命勢力に変えてその武力に期待しようと試みましたが
全くこれは相手にもされず、再び絶望します。

ここに至って尊王攘夷を実現すべく革命的市民の一大結集を大真面目に考え始め ます。

これがやがて後の高杉晋作による奇兵隊創設につながっていくんだと思います。






現行の幕政に痛撃を与えるため、松陰はとんでもない事を考え、かつ藩庁に嘆願書を
送りつけます。





「老中・間部詮勝を殺そう」というのです。





井伊直弼の使い走りである間部詮勝は京において、公家をして「日米修好通商条約」賛成派
たらしめようとして公家工作をしていました。






間部を阻止するには殺すしか他に手はない、と松陰は主張します。





またそれの実行のために武器弾薬の準備をも願い出ています。





幽囚の身でこのような嘆願を行なっているんですね。 





もとより松陰に対して藩の当局者はかねてより好意的でありました。
しかしさすがにこの嘆願には驚きあわてます。





藩庁は議論で松陰を説き伏せる自信はありません。
やむなく松陰の身柄を野山獄に移します。
松陰の自由を奪うことによって、その暴発を防ぐ考えでしたが、それ以外に
松陰の身を守る術がないとも考えたのでした。





万が一この嘆願の内容が外部に漏れでもしたら松陰の命は幾つあっても
たりません。





ここでも長州藩の温情気質が垣間見えますね。





この秘密は幕府の探索者には掴まれていませんでした。





幕府は別の理由で松陰を尋問すべく江戸へ送るよう長州藩に命令したのでした。





その理由とは志士活動を大掛かりに行っていた梅田雲浜(ウンビン)の罪を追及
するため松陰を参考人として江戸へ送るよう申し付けてきたのでした。

それともう一つ理由がありました。

京の御所の庭に落し文があり、これが松陰のものだという疑いです。
その申し開きをせよ、ということでした。

もとより松陰は京の御所に入ったこともなく、梅田雲浜の件についても相手が勝手に
訪ねてきただけのことで全く問題のないところです。






ですがこの時の執政である村田清風派の周布政之助(スフマサノスケ)は心配します。





身に覚えのない事柄に関する尋問であるから普通なら心配はないところだが、
松陰はああいう純な男だから何を言い出すやらわからない・・・と心配し出す
のです。





その心配は正に的中していました。





松陰は自分が刑死する可能性が高いと考えていました。
なにせ密航を企てた過去がありますし。
松下村塾では尊王攘夷を熱く語っていますし。
間部詮勝(マナベアキカツ)を殺す計画なども提案したことですし。





そこで天下のお白洲の場で救国の方策についての所信を述べ、尋問する幕府役人の
考え方を変えさせ、もって幕府の方針をも変えさせてみよう、と考えていました。
その為のまたとないチャンスだと考えるんです。
もとより死を覚悟の上です。





「きっとわかってくれる」という気分がいつの時でも松陰という人にはあったんです。





しかしここまで来るとその魅力的な楽天性や素直に人を信じる性格も現実的には
度を越して滑稽でさえあります。

いや滑稽さも悲痛さも超えています。





大望の為には命を捨ててかかることも必要でしょうが、また大望の為にも命を大切に
することも必要なんじゃないかと私なんかは思うのですが、皆さんの意見はどうで
しょうか?
必要な尋問だけに答えてくれば無事に長州に帰れたと思うのですが。





さて評定所のお白洲。





松陰の視線の上に裃(かみしも)を付けたそうそうたる取調官が居並んでいます。
吟味役が尋問を行っていきます。





梅田雲浜(ウンビン)の件も落し文の件もほぼ疑いが晴れます。





しかしこの吟味役、松陰に対して優しい語調で誘導尋問を仕掛けます。





「そのほう、多年、日本国を憂えて辛苦したと聞く。そのことは吟味の筋ではないが
、ここで聞かせてくれぬか」





松陰この時この取調官らをにわかに信じてしまいます。





今こそ・・・と思ったことでしょう。





松陰は日本国がいかに危ういかを説き、今後どうすればよいかを説いた上で、
あろうことか奉行以下が呆然となるほどの正直さで松陰がやったり、企てたり
したことの一切合切を語ります。
間部詮勝(マナベアキカツ襲撃計画のことまでです。





訊かれもしない自分の罪状まで大いに述べてしまったわけです。





いつもここでつい思ってしまいます。「あー、余計な事を、またー」




でもこれが松陰なんです。

玉木文之進から公人としての教育を受け、自らも決して人を疑わぬと自己教育
してきた松陰の性格なんですね。

純粋と言えばこれほど純粋な人格はないでしょう。

それゆえ時が経ち、時代が変わろうとも松陰を敬愛する人が後を絶たないの
だと思います。





吟味は7月9日、9月5日、10月5日,10月16日の計4回行われました。





そしてついに10月27日朝、死罪を宣告され直ぐに実行されました。





その最後は堂々として大変立派だったと伝わっています。





松下村塾での松陰と愛弟子たちとの交流や死罪前の獄中での松陰の心境やらは
別項でお話したいと思います。




付けたしの形になりますが・・・
江戸・長州藩邸から評定所に向かう松陰護送には騎馬武者一騎、士分が三名、
足軽中間が三十人という仰々しい隊列をもって行いました。

松陰が長州藩にとって大切な人材であることを幕府にアピールするためでした。
それによって松陰に対する判決が少しでも軽くなってほしい、という期待をかけた
ものでした。

ここに長州藩の松陰に対する優しさがはっきりと見えます。
感動の一場面だと思います。




長文のご精読ありがとうございました。






















《吉田松陰3大事件/密航失敗事件》 [吉田松陰3大事件]

《吉田松陰3大事件/密航事件》






吉田松陰は脱藩の罪で国元に返され、とりあえず「親類あずけ」と
なります。





杉家に戻った松陰を家族の者は誰一人として不快な顔をしたり、叱
ったりはしません。
こういう思いやりと明るさが杉家の特徴だったんです。





松陰は杉家の三畳の仏間を蟄居(ちっきょ)部屋としてあてがわれ
ます。




松陰は藩からの沙汰を待ちますがすぐには判決が下りてきません。
村田清風が藩政を握っている時期なら寛大な処置が期待できるので
すが、この時は敵対派閥の坪井派が政権を握っている時期でした。





やがて判決が下ります。





士籍はく奪・家禄没収・召し放ち





つまりは追放罪です。





しかし判決文の最後の条項に「実父杉百合之助ノ育(はぐくみ)と
する」とあり、この一項で完全な浪人となる最悪な事態は免れてい
ます。





育(はぐくみ)とは長州藩独特の制度で、いわば公式の居候、公式の
被保護者というニュアンスの言葉で、これによって松陰は他藩の者に
「自分は長州藩士です」と語ってもうそにはならない、というような
宙ぶらりんな身分ということです。





この一項に長州藩独特の温情主義が見られると思います。





さらにこの上に藩主からの救済の手が差し伸べられます。
松陰の才を惜しむ藩主が「向こう10年、諸国修行」を許可します。





1853年(嘉永6年)1月26日 10年の遊歴に出るべく松陰は萩城下を
旅立ちます。



奇しくもこれより5ヶ月後ペリーが来航し開国を強要する大事件が勃発
するのです。
なんとタイムリーなんでしょうか。
松陰はその歴史的事件に遭遇すべく畿内遊学を経て江戸に向かって歩き
ます。





江戸では佐久間象山の塾に再入門することがさしあたっての目的でした。





1853年5月、江戸に入ると友人である桶町河岸の鳥山新三郎と再会を喜び合います。





この後松陰は佐久間象山を訪ねる前に母・滝の兄である竹院(チクイン)を鎌倉に
訪ねています。瑞泉寺の第二十五世の住職でした。




この時松陰は竹院に重大な心のうちを半ば吐露しています。





家学である山鹿流軍学ではとうてい列強先進国の武力には対抗できない。 洋学を修め、敵の文明を知り、敵の武器・戦法を知り、その上で敵に備え、 敵を撃たねば、日本は必ずや洋夷の侵略するところとなる。





知識として知った中国、アジア諸国の惨状が頭から離れません。





ここ数年、日本中を歩き回って海岸を見、山岳を見、国防のことを考え続けた。
日本中のこれという人物にはあらかた会い、目の前の国防問題について意見を
求めたがついに回答を得ない。





佐久間象山は日本一の洋学者だが所詮鎖国の日本の中で暮らす日本人であり、
針の穴から天を覗くようなもので、古ぼけた数冊の蘭書に頼っているだけに
すぎない。





この上は、国禁を破って外国へ渡る以外に方法はないのではないか・・・と。
日頃、口に出せず思い悩むところの一旦を吐露しているのです。





先頃行ってしまった友との約束ゆえの脱藩とは比べものにならない大罪です。





1853年6月3日松陰は佐久間象山を訪ねています。
じつはこの日の午後2時ペリー艦隊は浦賀に到着しています。





この事実を松陰が知ったのは6月4日。
急いで浦賀に向い、翌5日の夜も10時過ぎ。
翌早朝、松陰はその目で初めて異国の軍艦を見ます。
その威容に目は釘付けになり、黒船の空砲射撃の轟音に膝頭がワナワナと震えます。






ペリーは日本との通商を申し込むにあたり、返答によっては武力制圧もあること
を意図的に暗示しました。






この脅し(おどし)をもっての久里浜談判はその屈辱性と相まって日本人の対外敵対心
を一気に日本の津々浦々にまで引き起こすことになり、以後15年間にわたる幕末の
騒乱を引き起こすきっかけになりました。






ペリーは返答をもらう為翌年に再び来航する旨を告げて6月12日に一旦去っていきます。






日を置かず松陰は「将及私言」(しょうきゅうしげん)という意見書を藩主当てに提出し、
これが受け入れられ、藩主毛利敬親(タカチカ)の元にまで届いています。





追放された状態の藩士が事もあろうに藩主に対し意見書を贈るなど考えられない事態で
、死を命ぜられてもおかしくない大変な僭越行為でした。





黒船騒ぎでごった返している時に、間近で観察してきた松陰の意見書は無視することの
できないものだったのでしょう。






「将及私言」で松陰は5、6か月のうちに日本の存亡を賭けた戦いが起こる可能性や、
藩組織の一変の必要性、藩主独裁体制確立の必要性、西洋式鉄砲と西洋式軍艦の購入
や西洋式騎兵と西洋式歩兵を至急組織することの必要性を勧めています。
また国内で革命が起きる可能性を示し、それに対する準備の必要性まで説いています。






九州遊学や東北遊学の頃の松陰は海戦において現状日本に全く分がない。
しかし内陸戦に持ち込めば日本に勝機が生まれる、と考えていました。






しかし、黒船に接し、かの軍隊組織を見た後はとてものこと内陸戦といえども勝機なし、
との結論を自覚します。






抜刀して切り込んでもたちまち西洋式銃砲で蹴散らされてしまう結果しか待っていない。





どうしたらいいのか・・・松陰はひたすら悩み、考え続けます。






この時、松代藩から情報が入ります。





ロシアの艦隊が四隻、ペリー同様の要求をかかげて長崎港に入ったという。





松陰、まさにとっさに決意します。「ロシアへ行こう」

ロシアへ密航し、西欧の文明社会を自分の目で見て来よう。





早速、長崎へ急行します。1853年9月のことでした。





1ヶ月余りかかって九州・熊本までたどり着きますが、松陰は先を急がず親友の
宮部鼎三(テイゾウ)を訪ねロシア密航の件を打ち明けました。




宮部いわく「はたして成功するかどうかはなはだ疑わしい」

松陰答えていわく「成るか成らぬかは天の仕事である。私としてはやってみるだけの
           ことだ」

これが松陰の基本的精神であり、行動力の人そのものです。

「行動なき学問は学問にあらず」という陽明学をまさに地で行(い)っています。






27日になってようやく長崎に入ります。
しかしどこにもロシアの艦隊は見当たりません。
ヨーロッパでクリミア戦争が始まろうとしており、時の海軍中将プチャーチンは
急遽本国へ帰ってしまったのでした。
松陰が長崎に入る3日前のことでした。





だいたい、こういう齟齬(そご)が松陰には多いのですが、それは責められない
ことでしょう。
現代のようにインターネットもない時代です。
とりああえず動いてみるしか仕方のない時代です。





気持ちを入れ替え、松陰は江戸へ戻ります。
いつものように鳥山新三郎の宅に入ります。





ここで松陰は新三郎から金子重之助(シゲノスケ)という青年を紹介されます。





長州出身ですが百姓出身の者で、学問したさに江戸に出るため脱藩してきた人です。
松陰がロシア密航を企て、長崎に向かったと知るや、すぐさま地を蹴って後を追った
という。
まるで松陰そっくりの行動力の持ち主です。
この金子重之助、松陰に心酔し、松陰の最初の弟子となります。





後のことですが、アメリカ密航失敗で松陰とともに縛に就き、国元へ返され、
松陰とは別の獄舎に入れられ獄死しています。病死でした。大変な苦しみよう
だったと伝わっています。




さてやっと本題。





年が明けて1854年1月14日。ついにペリー艦隊が江戸湾に進入してきました。
この時、7隻でやって来ました。




松陰この時24歳。





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http://ameblo.jp/hakkouichiu/entry-10043645004.htm...


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http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-...





ぺりーの開国要求に対してどう対応するべきか、幕府要人はもとより日本中が緊張
します。





「断固、屈するなかれ」という攘夷論が巷(ちまた)で沸騰します。





幕府はペリーの強圧外交に屈します。
横浜において2度の会談で日米和親条約を締結します。

日米和親条約についてはこちらをご参照ください。





日本中に落胆と怒りが蔓延します。





さて松陰。

すでに密航の決行を決意しています。





江戸出発の日は3月5日と決め、その前日に伊勢本という酒楼で友人らを招き密航の
決行を表明しています。

賛否両論飛び交うなか、一同賛成に落ち着きます。





なぜ秘事をわざわざ友人らに漏らしたのか?





松陰は現世での立身などまるで望みはしませんでしたが、死後での功名には執着して
いたのです。

長州の勤王の第一声は自分である、という名誉は正に自分にある、ということを世に
残しておきたかったようです。

もっとも、後年、松陰はこれを恥じ、反省していますが。






松陰と金子重之助は黒船を追って下田まで急ぎます。


簡単に書いてますが江戸から横浜、そして静岡県の下田まで歩いたら遠いですよ。
車で何度か下田まで行ったことがありますが、遠い、遠い。
歩くことが当たり前の時代とはいえ、ほんとうに昔の人は健脚だったんですね。
東京から下田まで数日で行って来いと言われてできる人なんて現代ではいないでしょう。



  

1854年3月26日午前2時 真っ暗な中、2人は行動を開始します。
激しい風雨をついてやっとの思いで軍艦ポーハタン号にたどり着きます。
ずぶ濡れヘトヘトの状態です。



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http://www.webkohbo.com/info3/shoin/shoin_shimoda....




アメリカへ渡航したい旨を通訳官のウィリアムズに必死で頼み込みますが、ペリーとしては
今その申し出を聞き入れるわけにはいかず、断られ、浜まで送り返されます。





やはり失敗に終わってしまいました。





どうですかね。

ここまで見てくると松陰という人は確かに頭が良く、行動力も飛躍するほどにあるのは確か
ですが、用意周到という言葉が一切当てはまらないように感じて仕方ありません。

決意するや行動に移す・・・という行動パターンが目立ちすぎるように思えてなりません。
言葉と情熱だけが先走ってばかりのような気がしますが、皆さんはこの点どう思われますか?

もとより松陰は既に命は捨ててすべての行動に出るのですが、例えば後に高杉晋作らが上海に
見聞に出かけていますが、そういった別の方法とかなかったんですかね?

失敗に終わり、死罪となっても後世に名を残すという松陰独特の若さゆえの美学のために
用意周到な準備というものがないがしろになっているように私には思えました。

いかに屈辱的開国というショッキングな出来事の直後とはいえ頭が熱し過ぎていたのでは
ないでしょうか?

それだけ純粋であったとも言えますが。




吉田松陰と金子重之助

PICT08901.jpg
http://www.geocities.jp/bane2161/yosidasyouin.htm

さて松陰。

密航失敗の直後、自ら下田奉行所に自首して出ています。





はじめ柿崎の名主のもとに自首して出た時、名主は面倒を恐れ、それとなく逃がそうと
しました。
松陰曰く「罪は罪である。男児は罪を犯して逃げ隠れするようなことがあってはならない」
といって奉行所へ連れていかせました。

これも松陰流の美学。





奉行所の尋問に対しても洗いざらい正直に答えています。

取調官が松陰のあまりの正直さにあわれを覚え、「そのようなことまで言うと、死罪はまぬがれ
ないぞ」とたしなめる程でした。

それに対して松陰はこう言っています。

「私は志を立てて以来、万死を覚悟することをもって自分の思念と行動の分としています。
いま死を恐れては私の半生は無に等しくなります」

これも松陰流の美学。






二人は江戸へ送られます。





伝馬町の獄に入れられた後、身柄を藩に移され9月23日江戸をたち、10月24日長州・萩に
戻って、侍階級が入る野山獄に収監されます。

金子重之助は百姓の身分の者が入る環境劣悪な岩倉獄に収監され、やがて病に苦しんだ
あげく病死してしまいます。





野山獄では囚人同士で互いの得意分野を教授し合ったりもしたようです。





やがて松陰は病気療養の名目で杉家に引き取られることになります。





ところで・・・
伝馬町の獄に入れられた松陰ですが死罪にならず藩お預けになっていますね。
ちょっと意外な判決ですね。
密航は国禁を破る大罪なのに。
下田奉行所の心象がよほど良かったのでしょうか?
そういえばペリーも二人の身を案じて、奉行所になるべく寛大な処置を頼んでいた
とのことです。
そういった事がが配慮されたんじゃないかな、と私は思うのですが。
どうでしょう?





ま、とにかく松陰は再び実家で罪人として暮らすことになり、ここに松陰による
松下村塾が始まるのです。




家族が優しく松陰を迎えたのは言うまでもありません。
本当に素敵な家族ですね。




吉田松陰3大事件/脱藩事件 [吉田松陰3大事件]

《吉田松陰3大事件/脱藩事件》




1850年(嘉永3年)吉田松陰は九州遊学を終え帰国しますが、すぐさま江戸留学
を願い出ています。
松陰にはあまい藩の役人はこれを了承。
折よく参勤交代で江戸へ向かう藩主のお伴という名目で翌年江戸に向かいます。
松陰21歳。




江戸では数多くの学者のもとへ通いますが、とりわけ親しく接したのは房州の百姓
あがりの儒学者・鳥山新三郎(トリヤマシンザブロウ)で江戸・桶町河岸(おけちょうがし)で
蒼龍軒(そうりゅうけん)という私塾を開いている民間学者。




よほど気に入ったのでしょう、暇さえあると鍛冶橋(かじばし)にあるこの鳥山宅
に遊びに行き、彼の話を聞いていたようです。
のち松陰は江戸へ来るとこの鳥山卓を宿にしています。




他にも同藩で仲の良い来原良蔵(クリハラリョウゾウ)や、明倫館で松陰の講義を受けていた
桂小五郎なども鳥山塾の常連でした。
後年、獄中の松陰に義捐金(ぎえんきん)を贈ったために罰を受けています。
松陰のことがよほど可愛かったのでしょう。





さてもう一人大切な師との出会いがありました。
佐久間象山です。




佐久間象山は松代藩士のもともとは儒学者ですが、海防や洋式兵学にも精通し、オランダ語
をもマスターしていました。
当時、当代一の洋学者でした。
松陰は象山塾で多くの知識と知己を得ます。
象山は坂本龍馬の師としても有名ですね。



佐久間象山
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http://53922401.at.webry.info/201309/article_16.ht...





さて本題。




松陰は江戸で多くの友人を得ます。
とりわけ藩外の友人です。
中でも肥後熊本の宮部鼎三(ミヤベテイゾウ)と南部藩を脱藩している江幡五郎
(エバタゴロウ)と深い親交を結びます。
宮部鼎三とは既に九州遊学の折り知己になっています。
宮部鼎三は熊本藩において松陰と同じ立場の人間です。
江幡五郎は、藩内で藩主擁立(ようりつ)の騒動で、兄の春庵(シュンアン)が陰謀の
主である田鎖左膳(タグサルサゼン)という家老によって獄中で殺されていたため、
兄の敵を討つべく行動していた人物でした。





松陰はこの2人を強く尊敬しており、宮部鼎三から東北遊学の提案をされた時、
即座に喜び勇んで賛成しています。




宮部鼎三
Teisyun-en.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E9...
すでに房総半島から相模湾沿岸にかけて海防上の見地から視察をしており、同じような
見地から東北を見てみようということです。
また高名な学者も訪ねて勉強したい、とのことでした。




とにかくこの時代、学問をするということは一流の学者を訪ね歩いて教えを乞うこと
でした。
坂本龍馬も各地を旅して多くの知識を得ていますね。





さて江戸出発の日時は12月15日と決まりました。




松陰は藩役人に東北遊学の願い状を提出し難なく許されました。




夏が過ぎ、秋になり、やがて12月になった頃、松陰は重大なことを忘れていた
ことに気づきます。



過書手形」です。




過所手形とも書きます。





当時、旅行する場合には関所を通過するに際して手形が必要でした。
この手形のことを長州藩では「過書手形」といいました。




そのことを藩役人に確認を入れたところ、簡単な事務上の問題のはずが責任者の
間で大騒ぎになりました。




「過書手形」には藩主の押印が必要なのですが、国元で水害と干害があり、
その肝心の藩主は幕府から特別に許されてこの8月に国元に帰っていたのです。




藩主の印形をもらうための書類が江戸と国元を往復するだけで2ヶ月はかかります。
それでは2人の友人との約束が守れない・・・松陰は苦悶します。




江戸藩邸での最高責任者である佐世主殿(サセトノモ)は松陰を御用部屋に呼び出し、
旅立ちの延期をするよう言い渡します。
理由は要するに「事務上の手続きの未完」。
「過書手形」の交付がすぐにできない現状では藩として旅行を許可することは
出来ない、ということです。




松陰と佐世主殿との問答の様子と松陰を助けたい思いの来原良蔵と佐世主殿との
問答を作家・司馬遼太郎が『世に棲む日日』の中で記しています。
参考として一部を抜粋して引用します。





松陰「しかし殿様のお許しはすでにおりているのでございます。ただ過書手形一枚
   のことではございませぬか。その過書手形も、それを持たずに道中すると
   いう便法は、世上おこなわれていることであり、当藩にあっても先例は多う
   ございます」

佐世主殿「過書手形は大公儀(幕府)の御法である。もしそれを持たずにゆく藩士が
      あれば、殿さまの御法度になる」


※松陰にすれば愚にもつかぬ形式主義に思えました。
  松陰は生まれて初めて官僚がどういうものかを知ることになりました。



以下は友人来原良蔵と佐世主殿との問答の様子です。



来原良蔵「あれでは吉田が可哀相でございます」

佐世主殿「奇態なことをいう。わしは江戸留守居役として寅次郎(松陰のこと)の奥羽
     旅行を禁じているのではない。すでに許可した。ただ過書手形を持たずに
     ゆくのは不穏当だから、それがくだるまですこし待てというのだ。念のため
     にいうが、わしは待てといっているだけだぞ、この道理がわからぬか」

来原良蔵「しかし」
      「過書手形を持たずに藩士が旅をした例は、いままでに何例もあります」

佐世主殿「天下の法も、藩の規則も、過書手形を持たずに旅をしてはならぬということ
      になっている。そうでない例が幾百幾千あろうと、まちがったことは先例に
      ならぬ。法は守らねばならぬ」


来原良蔵「死法同然でも?」

佐世主殿「死法ではない。もし寅次郎が他藩領でゆきだおれになったらどうなる。
      たとえばその藩が、疑う。手形なしの他国人が、自分の藩の秘密をさぐりに
      きたものとして疑う。検察して長州藩士だとわかった場合どうであろう、
      殿さまへのご迷惑ははかり知れぬではないか」

来原良蔵「それは万に一つの場合でございましょう」

佐世主殿「法は万に一つの場合のためにあるのだ。来原良蔵は、法など要らぬというのか」

来原良蔵「決して」

佐世主殿「わかれば、席を立て」



※来原良蔵はここで松陰と友人2人の深い交情を説明して、そして言います。



来原良蔵「そのような事情なのです」
     「寅次郎は、友誼(ゆうぎ)をやぶることになります」

佐世主殿「なにか、まちがっとりゃせんか。延期せよというのは藩命である。
      宮部やら江幡やらのことは、私交上のことではないか。
      私がさきで、公はどうでもよいというのか」

来原良蔵「しかし、そこは御裁量によって」

佐世主殿「あまえてはいけない」
     「だいたい、吉田寅次郎なる者、わずかに学才があるため国もとの重臣たちが
      かれを可愛がりすぎている。かれは藩に対し、甘え根性ができている」

来原良蔵「これは心外なことを。私は寅次郎をよく知っております。
      かれは甘える男ではありません」

佐世主殿「それならば藩命にしたがうことだ。藩の規則というのはいかにくだらない
      とりきめでもそれを守らねば藩秩序が崩れる。このたび寅次郎に特例を
      ゆるせばそれが先例になり、過書手形の法規はなきにひとしくなる。
      私は藩秩序の江戸における責任者である。
      秩序をこわすようなことを、この江戸御留守居役佐世主殿ができると
      おもうか。
      帰室して寅次郎にそう申せ」


以上、抜粋でした。




来原良蔵から佐世主殿の意見を聞いた松陰は佐世主殿の秩序論にいたく感心するとともに
佐世主殿の志の堅牢さにふかく感じ入ります。




松陰にせよ秩序論者であり秩序美を賛美する人間です。
その自分が秩序に対して困惑している。
あまりの形式主義に往生してしまっている。




そして松陰はこう考え始めます。




「原理において正しければ秩序は無視してもかまわない。
大いなる義の前には一身の安全などはけしつぶのようなものだ。」




この場合の大いなる義とは、仲間との約束を守る、ということです。
松陰に言わせれば、「その程度の義さえおこなえない人間になにができるか」




松陰は脱藩を決意します。




さて皆さんはこの事をどう思われますでしょうか?




どうみても飛躍し過ぎだよ・・・と私なんか思ってしまうのですが。
ありていに言えば宮部鼎三と江幡五郎に事情を話し、出発の予定を変更する
相談とかできないもんでしょうか?




なんて考えたりしてしまいますが、松陰にすれば武士の約束であったのですね。




宝物のように大事にしている2人の友人に落胆させるのはかなり辛いことに
なりますし。




武士の情義として今更約束は決して破れない、と追い詰められたのでしょう。




脱藩は自分一人が罪を負うのではなく一族にも罪が及びます。

それを承知で断を下した理由をこう言っています。




「人間の本義のためである。人間の本義とは一諾(いちだく)をまもることだ。
 自分は他藩の者に承諾をした、約束をした。もしそれをやぶれば長州武士は
 惰弱であるというそしりをまねくであろう。
 もし長州武士の声価をおとすようなことがあれば、国家(藩と家)に対する
 罪はこれほど大きいことはない」





松陰という人は常にこうであったのですね。
やっぱりどこかかなり違います。




藩命でもなく、あくまで私ごとの旅行に過ぎないのですが、一度約束した以上は
脱藩してでもその約束は守る、というのです。




いかなる場合でもおのれ一個のことを考えない、という思考習慣を玉木文之進に
よって植え付けられていたゆえの判断なのでしょうか。
この点でいえば矛盾しますが。




玉木文之進により受けた公人教育をギリギリ凌駕してしまった瞬間、個人としての
人間の本義が最終回答として優先したのでしょうか。




あれほどの頭脳を持った松陰が出した結論は一身一族の安全ではなく「一諾を守る」
ことによって長州武士の声価を守り、友情を守ることになりました。




表面上はたわいない問題に見えますが、「武士」の世界での問題となるとここまで 切羽詰まるきわどい問題になるんですね。




現代では会社でヘマをすると「クビになる」と言いますが、昔は本当に首が胴を
離れたんです。




そういうシビアな時代に生きていた人の持つ覚悟というのは重さが違うんだと思います。




単純に若さゆえの事と割り切れるものではないのかも知れないなー、とも思います。


《一諾を守る》なんて人、身近にいますか?
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