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吉田松陰の人生略歴7《松陰の人格形成4》 [吉田松陰の人生略歴]

吉田松陰の人生略歴7《松陰の人格形成4》




この項では前回に引き続き松陰の人格形成に影響を及ぼした長州藩の政情の変遷に
ついて書いてみます。




第13代藩主となった毛利敬親(タカチカ)は藩の財政改革のため他藩にまで聞こえた
村田清風を執政に起用します。




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http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/gyosei/bunka-s/ish...





清風は貯まりに貯まった借金財政に対して、その徹底した合理主義で、産業を興し、
節約に努め、官有林の払下げを行うなどなど、あらゆる方法を使ってついに数年で
整理してしまいます。




その他に藩政改革、藩学振興、士風刷新のリーダーシップを取り、下からの意見を
積極的に受け入れるなど藩政に新しい風を吹き込んでいきます。




しかし急激な改革というのはいつの時代でも反発を呼ぶものです。
締めに締めたたずなを緩める段階に差し掛かるとおおぜいの恨みを買って失脚して
しまいます。




代って起用されたのが坪井九右衛門で清風の藩革事業のほとんどをもとのもくあみ
にしてしまいます。




やがて坪井の保守政治が停滞すると、清風系統の革新陣営から革新官僚が出て
藩政を再改革します。




そしてまた坪井派による政治に戻るを繰り返していきます。





自然、長州藩は村田清風の革新党と坪井九右衛門の保守党の対立と政権交代を 重ねていき、幕末にあっては村田清風を祖とする革新党が倒幕派になり、 坪井九右衛門を祖とする保守党が佐幕派になっていきます。





他の藩においてはこのような藩政の目まぐるしい変化はめったにあるものではなく
政治の能動性が培われていた点をみても他藩に先駆けて封建制度打破の起爆剤と
なる下地ができていたのです。




また村田清風は国防論者でもあり「かならず洋夷(ようい)が日本を侵しに来る」 と常日頃から説いてまわり、説くだけでなく兵制改革や士風刷新の重点をそこに おき、藩内に危機意識をあおり続けました。




幕末、長州藩が過度なばかりの危機感にかられ、暴走につぐ暴走を重ねていく源は
この清風の藩作りにあったんですね。




1855年(安政2年)ペリー来航の2年後に病没。
清風の予言通り洋夷がやって来ました。




清風により国防意識を植え付けられた長州藩はやがて攘夷運動の先頭を走ることに
なっていきます。




もちろん松陰も国防論に強烈な影響を受けたことでしょう。
また彼の教育にも当たった山田右衛門からも聞かされていたのですから同じ勉学に
励むにせよその緊張感はかなりのものだったのではないでしょうか?





何はともあれ長州藩が倒幕派となっていく下地は清風によって培われたのでした。









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