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《吉田松陰と兄・弟》 [吉田松陰と兄・弟・妹たち]

《吉田松陰と兄・弟》



吉田松陰と兄・杉民治




吉田松陰の兄・杉民治は杉百合之助長男で通称を梅太郎といいます。
民治という名は民政に尽くした功績により藩主から与えられたものです。



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1828年(文政11年)に生まれ1910年(明治43年)に没しています。
83歳まで生きられました。



幼少期は弟・松陰とともに父・百合之助と叔父の玉木文之進から学問を
叩き込まれました。後に藩校・明倫館に学びます。



情熱の人であった松陰に比べ、兄の民治はずいぶんと冷静でおとなしい性格だったようです。



兄・民治と弟・松陰は他人がうらやむほどに仲のよい兄弟でいつも一緒にご飯を食べ、同じ
ふとんで寝ていました。



1860年(万延元年マンエンガンネン)、32歳の時に父の隠居に伴い杉家の家督を相続します。
官に就いては民政家としての実力を発揮していきます。



目立たないですが松陰の最も良き理解者であり協力者でありました。
松陰が罪を得る度に連座して免職の憂き目に遭いながらも常に物心両面で弟・松陰を
支え続けます。



松陰が罪人として帰ってきても何も言わず温かく迎えます。



1876年(明治9年)に松下村塾を再興し子弟の教育にあたりました。
晩年には各地から松下村塾を見学に来る学生たちを案内するのが楽しみだったとのことです。






吉田松陰と弟・杉敏三郎




1845年(弘化2年)杉家の三男として生まれます。
松陰とは15歳下になります。


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敏三郎は生まれながらの聾唖者(ろうあしゃ)でした。
聾唖者というのは耳が聞こえず、発声もできない人のことです。




松陰が兄・民治から可愛がられたように松陰はもまた弟の敏三郎を慈しみます。
容姿が松陰によく似ていたそうです。
知能もなかなか優れていたそうで、書道と読書が好きだったとのことです。




松陰は現実主義者でおよそ神頼みのようなことは一切しない人でしたが、
九州遊学の途中、熊本を訪れた際に深夜、加藤清正の廟所(びょうしょ)に詣でて
弟の耳を治してほしい、と願掛けを行っています。 例外中の例外の行為でした。




安政の大獄で江戸に召喚された松陰に松下村塾の門人らと共に寄せ書きを送っています。
そこに敏三郎は「悔(カイ))の1文字を記して兄との別離に涙したと伝わっています。



愛する兄を失った敏三郎の心はどんなにかやるせないものだったことでしょう。




1876年(明治9年)32歳で病没されています。





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