《吉田松陰と妹たち1》 [吉田松陰と兄・弟・妹たち]
《吉田松陰と妹たち1》
吉田松陰には4人の妹がいました。
2歳年下の千代(後に芳子ヨシコと改名)
9歳年下の寿(ヒサ)
三番目の妹・艶(ツヤ)が生まれていますが夭逝(ようせい)しています。
15歳年下の妹・文(フミ、後に美和子と改名)
この文(フミ)がNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインとなりますよ。
井上真央さんが主役を務めます。
杉 千代
1832年(天保3年)杉家の長女として生まれます。
http://kinnhase.blog119.fc2.com/blog-entry-289.htm...
松陰と兄・梅太郎(民治)と長女の千代は年齢が近かったせいもあり、たいへん
仲が良かったそうです。
千代は杉家が経済的に貧しい時代、二人の兄とともに両親を手伝いながら妹たちや弟・
敏三郎の面倒もみていました。
4歳ころにはすでに母・滝の手伝いを始めていたそうな。
長じるに従い台所仕事や裁縫、洗濯などを覚え一日中忙しく家の手伝いに精を出して
いたそうです。
感心ですよね。
とにかく杉家は皆が協力して貧乏な生活の中でもどうにか遣り繰りして
頑張ります。
この家族は一人一人が優しく寛大でおおらかな空気を持っています。
父の百合之助が官に就き家族と離れて萩城下の住むことになったさいには
2年間父に従い家事など身の回りの世話をやり遂げました。
千代が12歳から14歳までのことでした。
今でいえば小学校6年から中1くらいの年齢ですかね。
後に同じ松本村に住む藩士・児玉初之進に嫁ぎ二男三女に恵まれました。
千代は松陰からの手紙を大事に保存していてくれました。
現代の私たちが人間松陰に触れることができるのは千代のお蔭ですね。
この千代、そうとうに腹の座った女性だったようです。
なにせ叔父・玉木文之進の切腹に際して頼まれて介錯を務めています。
千代40歳の時のことです。
首を一刀のもとに切り落とすんですよ。
よほどの精神の持ち主でないと実行不可能ですよね。
この場面をじっくり想像してみてください。
すごすぎますよ。
後年、雑誌『婦人の友』『日本及日本人』に松陰の思い出を語り残して
います。
1924年(大正13年)93歳で没します。
杉 寿(ヒサ)
1839年(天保10年)杉家の次女として誕生します。
松陰には9歳年下の妹でした。
15歳の時、藩の儒官である小田村伊之助(オダムライノスケ)に嫁ぎます。
小田村伊之助は後の楫取素彦(カトリモトヒコ)デス。
※儒官とは儒学をもって公務についている者。また、公の機関で
儒学を教授する者。
※儒学とは中国古代の儒家思想を基本にした学問。
孔子の唱えた倫理政治規範を体系化し、四書五経の経典を備え、
長く中国におけるが鬼門の中心となった。
自己の倫理的修養による人格育成から最高道徳である「仁」へ
の到達を目指し、また、礼楽刑政を講じて経国済民の道を説く。
後に朱子学・陽明学として展開されてゆく。
日本には4、5世紀頃に「論語」が伝来したと伝えられ、日本
文化に多大な影響を与えた。
以上はデジタル大辞泉より引用させていただきました。
松陰や民治もその初等教育において四書五経を徹底的に暗唱させられます。
武士の基本的必修科目だったのですね。
さてこの寿、姉妹の中では一番の美人であったようです。
やや見ずらいですが、写真をよく見ると確かにスラリとしたやや長身の美人
に見えますね。
https://sites.google.com/site/hagijinbutsu/list/10...
またかなり気丈な性格もあったようで、夫が藩内政争の末に野山獄
に入れられるとわざわざ夜中にそっと獄を訪れ夫に差し入れなどを
やってのけています。
明治の世となると群馬県令となった夫・楫取素彦を支えます。
また母・滝の影響を受け浄土真宗の熱心な信者でもあった寿は
群馬県下で熱心に布教活動を行っています。
1881年(明治14年)43歳の若さで没しています。
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」では優香さんに配役されています。
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吉田松陰には4人の妹がいました。
2歳年下の千代(後に芳子ヨシコと改名)
9歳年下の寿(ヒサ)
三番目の妹・艶(ツヤ)が生まれていますが夭逝(ようせい)しています。
15歳年下の妹・文(フミ、後に美和子と改名)
この文(フミ)がNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインとなりますよ。
井上真央さんが主役を務めます。
杉 千代
1832年(天保3年)杉家の長女として生まれます。
http://kinnhase.blog119.fc2.com/blog-entry-289.htm...
松陰と兄・梅太郎(民治)と長女の千代は年齢が近かったせいもあり、たいへん
仲が良かったそうです。
千代は杉家が経済的に貧しい時代、二人の兄とともに両親を手伝いながら妹たちや弟・
敏三郎の面倒もみていました。
4歳ころにはすでに母・滝の手伝いを始めていたそうな。
長じるに従い台所仕事や裁縫、洗濯などを覚え一日中忙しく家の手伝いに精を出して
いたそうです。
感心ですよね。
とにかく杉家は皆が協力して貧乏な生活の中でもどうにか遣り繰りして
頑張ります。
この家族は一人一人が優しく寛大でおおらかな空気を持っています。
父の百合之助が官に就き家族と離れて萩城下の住むことになったさいには
2年間父に従い家事など身の回りの世話をやり遂げました。
千代が12歳から14歳までのことでした。
今でいえば小学校6年から中1くらいの年齢ですかね。
後に同じ松本村に住む藩士・児玉初之進に嫁ぎ二男三女に恵まれました。
千代は松陰からの手紙を大事に保存していてくれました。
現代の私たちが人間松陰に触れることができるのは千代のお蔭ですね。
この千代、そうとうに腹の座った女性だったようです。
なにせ叔父・玉木文之進の切腹に際して頼まれて介錯を務めています。
千代40歳の時のことです。
首を一刀のもとに切り落とすんですよ。
よほどの精神の持ち主でないと実行不可能ですよね。
この場面をじっくり想像してみてください。
すごすぎますよ。
後年、雑誌『婦人の友』『日本及日本人』に松陰の思い出を語り残して
います。
1924年(大正13年)93歳で没します。
杉 寿(ヒサ)
1839年(天保10年)杉家の次女として誕生します。
松陰には9歳年下の妹でした。
15歳の時、藩の儒官である小田村伊之助(オダムライノスケ)に嫁ぎます。
小田村伊之助は後の楫取素彦(カトリモトヒコ)デス。
※儒官とは儒学をもって公務についている者。また、公の機関で
儒学を教授する者。
※儒学とは中国古代の儒家思想を基本にした学問。
孔子の唱えた倫理政治規範を体系化し、四書五経の経典を備え、
長く中国におけるが鬼門の中心となった。
自己の倫理的修養による人格育成から最高道徳である「仁」へ
の到達を目指し、また、礼楽刑政を講じて経国済民の道を説く。
後に朱子学・陽明学として展開されてゆく。
日本には4、5世紀頃に「論語」が伝来したと伝えられ、日本
文化に多大な影響を与えた。
以上はデジタル大辞泉より引用させていただきました。
松陰や民治もその初等教育において四書五経を徹底的に暗唱させられます。
武士の基本的必修科目だったのですね。
さてこの寿、姉妹の中では一番の美人であったようです。
やや見ずらいですが、写真をよく見ると確かにスラリとしたやや長身の美人
に見えますね。
https://sites.google.com/site/hagijinbutsu/list/10...
またかなり気丈な性格もあったようで、夫が藩内政争の末に野山獄
に入れられるとわざわざ夜中にそっと獄を訪れ夫に差し入れなどを
やってのけています。
明治の世となると群馬県令となった夫・楫取素彦を支えます。
また母・滝の影響を受け浄土真宗の熱心な信者でもあった寿は
群馬県下で熱心に布教活動を行っています。
1881年(明治14年)43歳の若さで没しています。
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」では優香さんに配役されています。
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