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《吉田松陰と妹たち2》 [吉田松陰と兄・弟・妹たち]

《吉田松陰と妹たち2》

さていよいよNHK大河ドラマのヒロイン杉 文(フミ)の登場です。




杉 文(→美和子と改名)





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http://bakumatsu.org/photos/view/441





1845年(弘化2年)杉家の四女として誕生します。
松陰とは15歳の年齢差があります。
「文」という名の由来ですが、叔父の玉木文之進が文を可愛がる
あまり自分の名前の一字をとって「文」と名付けられました。




松陰は門下生の中でとりわけ久坂玄瑞がお気に入りで妹の文を玄瑞
に嫁がせます。
この時、文15歳。
今でいえば中3くらいですね。
昔の結婚はとにかく早かったんですね。
今時の晩婚化なんてあり得ない時代ですね。




国事に奔走する玄瑞は留守がちで、寂しい思いをしているであろう文に
21通あまりの手紙を書き送っています。





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http://www.yoshida-shoin.com/monka/kusaka.html





1864年(元治元年)禁門の変で玄瑞が自刃して亡くなってしまいます。
わずか7年の結婚生活でした。




22歳の若さで未亡人となった久坂家の復興に努めたり、一時召されて
藩主の幼君・毛利元昭(モトアキ)の守役を務めたりしました。
この時、名を文から美和子に改めています。





1881年(明治14年)楫取素彦(カトリモトヒコ)に嫁いでいた姉の寿(ヒサ)が
病死します。
その2年後、母・滝の強い勧めで美和子は楫取の後添えのなります。
この時美和子40歳。
当時、楫取は群馬県令として多忙を極めていました。





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http://blogs.yahoo.co.jp/sakurajinyapoo/34406334.h...





再婚に際し、美和子は一つの条件を出しています。
それは元の夫・久坂玄瑞からの21通の手紙を持っていく、ということでした。




楫取素彦は快く承諾したのみでなく、その手紙に『涙袖帖』という名を
つけてくれました。「るいしゅうちょう」と読みます。
夫・玄瑞からの手紙だけを頼りに、涙で袖を濡らしながら淋しい思いに
堪えてきたんだね・・・大事にしなさい。
という楫取の美和子を思いやる優しさが感じられますね。




美和子は久坂玄瑞からの手紙を生涯大切に持っていました。





楫取素彦は松陰がもっとも信頼する人物の一人でした。
富岡製糸場の存続にも貢献しています。



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http://gipj.net/news/n140630/






美和子1921年(大正10年)79歳で没します。





NHK大河ドラマでは井上真央さんが文の役を務めます。



《吉田松陰と妹たち1》 [吉田松陰と兄・弟・妹たち]

《吉田松陰と妹たち1》




吉田松陰には4人の妹がいました。




2歳年下の千代(後に芳子ヨシコと改名)
9歳年下の寿(ヒサ)
三番目の妹・艶(ツヤ)が生まれていますが夭逝(ようせい)しています。
15歳年下の妹・文(フミ、後に美和子と改名)




この文(フミ)がNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインとなりますよ。
井上真央さんが主役を務めます。





杉 千代




1832年(天保3年)杉家の長女として生まれます。




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http://kinnhase.blog119.fc2.com/blog-entry-289.htm...




松陰と兄・梅太郎(民治)と長女の千代は年齢が近かったせいもあり、たいへん
仲が良かったそうです。




千代は杉家が経済的に貧しい時代、二人の兄とともに両親を手伝いながら妹たちや弟・
敏三郎の面倒もみていました。
4歳ころにはすでに母・滝の手伝いを始めていたそうな。




長じるに従い台所仕事や裁縫、洗濯などを覚え一日中忙しく家の手伝いに精を出して
いたそうです。




感心ですよね。




とにかく杉家は皆が協力して貧乏な生活の中でもどうにか遣り繰りして
頑張ります。
この家族は一人一人が優しく寛大でおおらかな空気を持っています。




父の百合之助が官に就き家族と離れて萩城下の住むことになったさいには
2年間父に従い家事など身の回りの世話をやり遂げました。
千代が12歳から14歳までのことでした。
今でいえば小学校6年から中1くらいの年齢ですかね。




後に同じ松本村に住む藩士・児玉初之進に嫁ぎ二男三女に恵まれました。




千代は松陰からの手紙を大事に保存していてくれました。
現代の私たちが人間松陰に触れることができるのは千代のお蔭ですね。




この千代、そうとうに腹の座った女性だったようです。




なにせ叔父・玉木文之進の切腹に際して頼まれて介錯を務めています。
千代40歳の時のことです。




首を一刀のもとに切り落とすんですよ。
よほどの精神の持ち主でないと実行不可能ですよね。
この場面をじっくり想像してみてください。
すごすぎますよ。




後年、雑誌『婦人の友』『日本及日本人』に松陰の思い出を語り残して
います。




1924年(大正13年)93歳で没します。






杉 寿(ヒサ)




1839年(天保10年)杉家の次女として誕生します。
松陰には9歳年下の妹でした。




15歳の時、藩の儒官である小田村伊之助(オダムライノスケ)に嫁ぎます。
小田村伊之助は後の楫取素彦(カトリモトヒコ)デス。




※儒官とは儒学をもって公務についている者。また、公の機関で
 儒学を教授する者。

※儒学とは中国古代の儒家思想を基本にした学問。
 孔子の唱えた倫理政治規範を体系化し、四書五経の経典を備え、
 長く中国におけるが鬼門の中心となった。
 自己の倫理的修養による人格育成から最高道徳である「仁」へ
 の到達を目指し、また、礼楽刑政を講じて経国済民の道を説く。
 後に朱子学・陽明学として展開されてゆく。
 日本には4、5世紀頃に「論語」が伝来したと伝えられ、日本
 文化に多大な影響を与えた。

以上はデジタル大辞泉より引用させていただきました。




松陰や民治もその初等教育において四書五経を徹底的に暗唱させられます。
武士の基本的必修科目だったのですね。




さてこの寿、姉妹の中では一番の美人であったようです。
やや見ずらいですが、写真をよく見ると確かにスラリとしたやや長身の美人
に見えますね。




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またかなり気丈な性格もあったようで、夫が藩内政争の末に野山獄
に入れられるとわざわざ夜中にそっと獄を訪れ夫に差し入れなどを
やってのけています。




明治の世となると群馬県令となった夫・楫取素彦を支えます。




また母・滝の影響を受け浄土真宗の熱心な信者でもあった寿は
群馬県下で熱心に布教活動を行っています。




1881年(明治14年)43歳の若さで没しています。




NHK大河ドラマ「花燃ゆ」では優香さんに配役されています。







《吉田松陰と兄・弟》 [吉田松陰と兄・弟・妹たち]

《吉田松陰と兄・弟》



吉田松陰と兄・杉民治




吉田松陰の兄・杉民治は杉百合之助長男で通称を梅太郎といいます。
民治という名は民政に尽くした功績により藩主から与えられたものです。



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1828年(文政11年)に生まれ1910年(明治43年)に没しています。
83歳まで生きられました。



幼少期は弟・松陰とともに父・百合之助と叔父の玉木文之進から学問を
叩き込まれました。後に藩校・明倫館に学びます。



情熱の人であった松陰に比べ、兄の民治はずいぶんと冷静でおとなしい性格だったようです。



兄・民治と弟・松陰は他人がうらやむほどに仲のよい兄弟でいつも一緒にご飯を食べ、同じ
ふとんで寝ていました。



1860年(万延元年マンエンガンネン)、32歳の時に父の隠居に伴い杉家の家督を相続します。
官に就いては民政家としての実力を発揮していきます。



目立たないですが松陰の最も良き理解者であり協力者でありました。
松陰が罪を得る度に連座して免職の憂き目に遭いながらも常に物心両面で弟・松陰を
支え続けます。



松陰が罪人として帰ってきても何も言わず温かく迎えます。



1876年(明治9年)に松下村塾を再興し子弟の教育にあたりました。
晩年には各地から松下村塾を見学に来る学生たちを案内するのが楽しみだったとのことです。






吉田松陰と弟・杉敏三郎




1845年(弘化2年)杉家の三男として生まれます。
松陰とは15歳下になります。


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敏三郎は生まれながらの聾唖者(ろうあしゃ)でした。
聾唖者というのは耳が聞こえず、発声もできない人のことです。




松陰が兄・民治から可愛がられたように松陰はもまた弟の敏三郎を慈しみます。
容姿が松陰によく似ていたそうです。
知能もなかなか優れていたそうで、書道と読書が好きだったとのことです。




松陰は現実主義者でおよそ神頼みのようなことは一切しない人でしたが、
九州遊学の途中、熊本を訪れた際に深夜、加藤清正の廟所(びょうしょ)に詣でて
弟の耳を治してほしい、と願掛けを行っています。 例外中の例外の行為でした。




安政の大獄で江戸に召喚された松陰に松下村塾の門人らと共に寄せ書きを送っています。
そこに敏三郎は「悔(カイ))の1文字を記して兄との別離に涙したと伝わっています。



愛する兄を失った敏三郎の心はどんなにかやるせないものだったことでしょう。




1876年(明治9年)32歳で病没されています。



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