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吉田松陰の人生略歴5《松陰の人格形成2》 [吉田松陰の人生略歴]

吉田松陰の人生略歴5《松陰の人格形成2》



吉田松陰の言動・思想には私利私欲というものが一切
ありませんでした。



こういう人間性は誰がどうやって松陰に植え付けたので
しょうか?



答えは叔父・玉木文之進の教育にありました。



ある意味松陰を松陰たらしめたのは玉木文之進なのです。



玉木文之進は松陰の父・杉百合之助の2番目の弟で玉木家
に養子に出されていた人です。



因みに松陰の養父となる山鹿流軍学師範の吉田大助は杉
百合之助の1番目の弟で、代々山鹿流軍学師範吉田家に
養子に出されていた人です。
よほど優秀な方だったのでしょうね。



昔は家名存続のためこういう事が頻繁に行われていたんで
すね。



松陰が吉田家に仮養子になったのが5歳の時で、翌年養父の
大助が病気で亡くなってしまいます。



藩としては山鹿流軍学を存続させるため、松陰に吉田家の
家督を継がせます。

松陰は5歳にして吉田家の当主となり、また山鹿流軍学師範
の後継者が義務付けられました。



藩命により玉木文之進と故吉田大助の高弟たちが松陰のいわ
ば家庭教師に任命されます。



松陰に主に接したのが玉木文之進でした。



5歳~18歳までの間、文之進は徹底したスパルタ教育を行い
ます。



文之進は松陰12歳の時、1842年(天保13年)に松下村塾を開いて
近所の子供たちの教育を無償で行います。
これが松下村塾の始まりです。



1843年(天保14年)文之進が藩の役職につくと吉田大助の弟子
であった山田宇右衛門(ヤマダ ウエモン)が13歳から18歳までの松陰の
教育を手伝いますが、メインは玉木文之進でした。



この山田右衛門、松陰が14歳の時、「日本は滅びるぞ」と、松陰に
危機意識を植え付けた人でした。



山田右衛門は百石取りの上士で、江戸で見聞してきた日本をめぐる
国債情報を松陰に与え、おおきな影響を与えました。



松陰は後に九州遊学の時、アヘン戦争の実態やヨーロッパ列強の
アジア進出についてがむしゃらに学んできます。



当初、文之進による松陰への個人授業もやはり畑のあぜ道で
行なわれました。



後に文之進の松下村塾ができたり、藩校・明倫館に通うように
なるまでは野天での学習だったのでしょう。



ひたすら暗唱・読解の日々だったのではないでしょうか。



村を出て官についた文之進はしだいに民政家としての手腕を藩
に認められ、やがて数郡を宰領する地方官になり、さらに抜擢
されて藩の重役にまで上ります。



そういえば松陰の兄の梅太郎も後に民政家としての実力を発揮
して藩主から「民治」という名を頂戴しています。



兄の民治もやはり父と文之進から学問を叩き込まれています。



さて松陰に対する文之進の教育は現代では考えられない程の
想像を絶するものでした。



松陰は将来の山鹿流軍学を背負って立つ人間です。



背負って立つことのできる人間に育てなければなりません。



その凄まじさの数例を司馬遼太郎は小説「世に棲む日々(一)」
の中でこのように紹介しています。



以下、抜粋。



文之進は謹直そのものの男だが、ときどき、魔王のように荒れた。

鍬(すき)をすて、「寅、おごったか」と、飛びあがるなり

松陰をなぐりたおすことがしばしばであり、殴られながら松陰

にはなんのことやら理由がわからない。

起き上がると、根掘り葉掘りその理由を説明する。

それがまた、ささいなことばかりであった。

書物の開き方がぞんざいであったとか、両手で書物を掲げ、手を

まっすぐにあげて朗読せねばならぬところを、ひじがゆるんでいた

とか、そういう形の上でのことが多い。

「かたちは、心である」と文之進はよく言った。

形式から精神に入るという教育思想の熱狂的な信奉者がこの玉木

文之進であったのであろう。






ある夏のことである。

その日格別に暑く、野は燃えるようであった。

暑い日は松陰は大きな百姓笠をかぶらされた。

この日もそうであったが、しかし暑さで顔中が汗で濡れ、その汗の

ねばりに蠅がたかってたまらなくかゆかった。

松陰はつい手をあげて掻いた。

これが文之進の目にとまった。

折檻がはじまった。

この日の折檻はとくにすさまじく、「それでも侍の子か」と声を

あげるなり松陰をなぐりたおし、起き上がるとまたなぐり、ついに

庭の前の崖へむかってつきとばした。

松陰は崖からころがりおち、切り株に横腹を打って気絶した。

(死んだ)と、母親のお滝は思った。

お滝はたまたまこの不幸な現場をみていたのである。







玉木文之進は兵学のほか、経書や歴史、馬術、剣術もおしえる。

しかしそういう学問や技術よりも、「侍とはなにか」ということを

力まかせにこの幼い者にたたきこんでゆくというのが、かれの

教育方針であるらしかった。

玉木文之進によれば、侍の定義は公(おおやけ)のためにつくすもの であるという以外にない、ということが持説であり、極端に私情を

排した。

学問を学ぶことは公のためにつくす自分をつくるためであり、そのため

読書中に頬のかゆさを掻くということすら私情である、というのである。

「痒みは私(わたくし)。掻くことは私の満足。それをゆるせば

長じて人の世に出たとき私利私欲をはかる人間になる。だからなぐるのだ」

という。

肉体を殴りつけることによって恐怖させ、そういう人間の本然の情(つ まり私利私欲)を幼いうちからつみとるか封じこんでしまおう、という のがかれのやりかたであった。






「侍は作るものだ。生まれるものではない」という意味のことを

玉木文之進はたえずいった。

松陰は五歳から十八歳までのあいだ、このような家庭教師から教育

をうけた。






以上、抜粋でした。





どうですか?

今でいえばまだ幼稚園児とか小学校低学年といったところでしょうに。

幼少期に徹底的に叩き込まれた”公人”としての意識が松陰の思考と
言動の全てに影響を与えることになります。

現代心理学的にいうなら潜在意識に刷り込まれた”公人”の意識が生涯
を通じて松陰を支配していくことになります。

ま、とにかく厳しい!




ここで終わると玉木文之進はただただ鬼のような男、ということになって
しまいます。



実は大変に優しい人格の持ち主なんです。



松陰や塾生が病気でもしようものなら、オロオロといてもたまらず心配
するような人で、年に数度しかない休日には塾生達と無邪気に遊び戯れ
て、皆を笑わせて回るようなこっけいな面も持ち合わせています。



官に就き、村々の現状調査を行った時などは、あまりに悲惨な状況にある
お百姓に涙を流したりもしました。
そして民政の改革の実をあげていったのです。
藩主からお褒めの言葉と特別手当のような臨時収入があると貧しい農民の
ために全て使ったりしています。



彼自身まぎれもない”公人”だったのです。



明治の世となり官を辞した後、萩で再び塾を主宰して子弟の教育に尽くす
のですが、1876年(明治9年)不平士族の反乱「萩の乱」が起き、この乱に
多くの門人が参加していることを知り、責任を感じるや先祖の墓前で切腹
して果てます。



この時、介錯したのは杉家の長女・千代(この時40歳、すでに芳子ヨシコと
改名しています)。
叔父の気性を知り尽くしている千代は止めることをあきらめ、見事、介錯
を果たします。




武士の娘・妻というもの、いや”武士の世界”の凄まじさを戦慄をもって
うかがわせるエピソードです。

いや、凄すぎ(すごすぎ)です。

皆さん、どうお感じになりますか?

  


私はこの玉木文之進という人物が大好きです。
あなたもきっと好きになられたことだろうと思います。




次回は吉田松陰の人格形成に影響を及ぼしたはずの長州藩そのものを
取り上げてみたいと思います。

長州藩の特徴とか、なぜ幕末になって火の玉のように暴走したのか・・・
等々書いてみたいと思います。





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