SSブログ

吉田松陰の人生略歴1《全般》 [吉田松陰の人生略歴]

吉田松陰の人生略歴1《全般》



幼少期



1830年(文政13年)8月4日長州藩士・杉百合の助(すぎ ゆりのすけ)の
次男として萩城下の松本村で生まれます。

※「花燃ゆ」の主人公「文」(ふみ)が生まれたのは松陰14歳の時で、1843年
(天保14年)。



実家の杉家は下士の身分で禄高は26石で実態は半士半農の貧しい家ではありました。



1834年(天保5年)叔父の藩士・吉田大助の養子となります。松陰5歳の時のことです。



翌年、吉田大助が病死したため松陰は6歳で吉田家の家督を継いでいくことになります。



吉田家は代々長州藩の山鹿流兵学師範を務める家柄で松陰の未来はその兵学指南者と
決定され、叔父である玉木文之進はじめ吉田大助縁故の高弟らによって一種の英才教育を
藩命によって受けていきます。



特に玉木文之進による教授はスパルタ教育で有名です。
松陰曰く「よく生きていられたものだ」だそうです。




8歳で藩校の明倫館で松陰は教授見習いとなっています。




1838年(天保9年)兵学の教授見習いとして藩校・明倫館に出仕します。
松陰8歳の時でした。




少年松陰の俊英ぶりの評判があまりに高いため藩主毛利慶親(もうりたかちか:敬親ともいう)
の要請で御前講義が行なわれ、そのあまりの出来の良さに藩主が驚嘆します。
松陰10歳の時の出来事としてあまりに有名ですね。




青年期




1850年(嘉永3年)かえい3年と読みます。九州遊学。
松陰20歳。
九州遊学で肥後熊本の宮部鼎三(みやべていぞう)と知り合います。




1851年(嘉永4年)藩主に伴い江戸留学。松陰21歳の時でした。
同年12月、宮部鼎三、江幡五郎との東北遊学の約束を守るため脱藩。
1852年4月 長州藩邸へ出頭。罪人として帰国。士籍と家禄を没収されます。




1853年(嘉永6年)1月 藩主・毛利敬親の温情により10年間の遊学を許可され
畿内遊学を経て江戸へ。佐久間象山と再会します。松陰22歳。



同年6月ペリー来航。浦賀に走り黒船を見る。大いなるショックとともに
いよいよ国防意識が高まります。



同年7月海外渡航を企て、ロシア艦隊の長崎入港に合わせて急行するも
タイミングが合わずに失敗。



1854年(安政元年)3月5日 ペリー来航を聞き、下田へ急行する。



同年3月27日、従者の金子重輔(しげのすけ)を伴い、
アメリカ艦船ポーハタン号に乗り込みアメリカ渡航を嘆願するが、
断固拒否されてしまいます。
日米和親条約(神奈川条約)が成ったばかりのこの時にアメリカ側にすれば
到底受け入れがたかったのでしょう。
この時、松陰24歳。




同年3月28日 下田代官所に自首。
同年4月15日 江戸・伝馬町に入獄。
同年9月18日 長州藩での幽閉を申し渡される。
同年10月24日 萩に到着後、野山獄に収監される。




1855年(安政3年)12月15日 杉家に預けられる。




1856年(安政3年)8月22日 門下生に講義を開始する。
松陰による松下村塾の始まりです。 この時、松陰26歳。
1857年(安政4年)11月5日 杉家の小屋を改修して講義室を作る。
※現存する松下村塾の建物ですね。




1858年(安政5年)12月26日 再び野山獄へ入れられる。
※周布政之助(すふ まさのすけ)に老中・間部あき勝の襲撃する計画を
打ち明けるが、周布は藩の為、松陰を野山獄に入獄させる。
じつはこれ、幕府から松陰の身を守るためでしたが。




1859年(安政6年)4月19日 幕府より江戸移送の命令が達せられる。
時はまさに安政の大獄の真っ最中。



同年6月24日 江戸上屋敷の獄に繋がれる。
同年7月9日 評定所において尋問が始まる。
※松陰は嘘偽りなく事実を述べ、また自分の意見を申し立てていきます。



同年10月27日 死罪が申しわたされ、同日処刑されます。
この時、松陰29歳。



スポンサーリンク






nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。