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吉田松陰と時代背景3 攘夷から倒幕へ。 [時代背景]

時代背景~続き~その3



吉田松陰に関する時系列事実は前回まででよろしいのですが、この
ブログはNHK大河ドラマ「花燃ゆ」との関係性も持たせたいので明治維新
まで時代背景を進めておきたいと思います。



さて前回までに大老井伊直弼の安政の大獄により吉田松陰が斬首に
処されます。



1860年(万延元年)桜田門外の変
有名な事件ですよね。井伊直弼が江戸城への登城の途中、桜田門の
近くで水戸浪士たちに襲われ暗殺されてしまった事件です。



この事件は幕府の専制政治に大きな打撃を与えます。



1862年(文久2年)坂下門外の変
老中安藤信正は公武合体に政策を推し進めようとしましたが、急進的な
尊王攘夷派の非難をあび、安藤信正は水戸浪士に襲われて負傷し、かつ、
辞職に追い込まれます。



1862年(文久2年)生麦事件
神奈川に近い生麦という所で薩摩の行列の前を馬で横切ったイギリス人
を殺傷する事件です。
無礼討ち(ぶれいうち)というものですね。

1863年(文久3年)薩英戦争
イギリスによる報復です。鹿児島が砲撃を受けます。



1863年(文久3年)八月十八日の政変
保守派の公家が会津藩と結んで三条実美(さんじょうさねとみ)らの
急進派の公家と長州藩を武力をもって追い払った事件です。



1864年(元治元年)池田屋事件
勤皇の志士たちによる謀議の場を新撰組が襲撃した有名な事件ですね。
この時、吉田松陰の親友である肥後熊本の宮部鼎三(みやべていぞう)が
討死しています。
また松陰門下の吉田稔麿(よしだとしまろ)も無念の横死を遂げています。



1864年(元治元年)禁門の変(蛤御門の変)
池田屋事件をきっかけに京都に攻め上った長州藩を薩摩藩と会津藩が協力
して打ち破ったのです。
これによって長州藩は朝敵となり第一次長州征伐を受けることになります。
この時、吉田松陰の妹の文(ふみ)の夫である久坂玄瑞(くさかげんずい)
が自刃してしまいます。
また松陰の愛弟子である入江九一も討死しています。



1864年(元治元年)四国連合艦隊下関砲撃事件(下関戦争)



長州藩は1862年以降数回にわたり下関の海峡を通過する外国船を砲撃していたが、
その報復として下関に砲撃を加え砲台を占拠しました。

長州藩は幕府とイギリス・アメリカ・フランス・オランダに謝罪と和をこうことに
なりますが、ここで大事なのは長州藩が身をもって外国の武力のすさまじさを
知ったことです。
とともに上級武士たちが役に立たないことがわかってしまったことで、
これが下級藩士の高杉晋作や桂小五郎などが台頭するきっかけになっていきます。
身分を問わず結成された高杉晋作の「奇兵隊」は有名ですね。



薩摩藩においても薩英戦争を経験することで同じく外国の武力の大きさを
知りました。
とても敵わない。実力をつけるまで外国と戦争など考えられない。
という事実に気が付いていくわけですね。



この両藩は攘夷の方針を改め、倒幕に転換させていきます。
西洋風に軍事力を整えていくためイギリスに接近していきます。



1865年(慶応元年)条約勅許
列強は日本国内の混乱に乗じて兵庫に艦隊を送り条約の勅許を得てしまいます。



1866年(慶応2年)改税約書調印
列強は条約勅許を得た後幕府に改税約書(かいぜいやくしょ)を調印させ
自国に有利な税率に改めさせてしまいます。



1866年(慶応2年)薩長同盟
薩摩と長州はその経緯から犬猿の仲でしたが、土佐の坂本龍馬の仲介により
同盟を結び、幕府による第2次長州征伐に対抗し、そのまま倒幕へと
突き進んでいきます。



1867年(慶応3年)大政奉還・王政復古の大号令
徳川幕府最後の将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返上します。



維新後は維新後で混乱が続くのですが「花燃ゆ」では文の2番目の夫となる
楫取素彦(かとりもとひこ)が富岡製糸場を守り抜く姿があります。

それはこのブログの別項で書いてみたいと思います。



攘夷から倒幕開国への意識の変遷についてはこちらも参照してみてください。

吉田松陰と時代背景2 ペリー来航と不平等条約 [時代背景]

時代背景 続きです。



幕末から明治維新までの期間をここでは1853年から1868年ということに
しておきましょう。



1853年はペリー来航の年で、1868年は明治初年です。
前年に徳川幕府から朝廷に大政奉還がなされています。



この15年間こそが幕末動乱の期間といえると思います。



その間に起きた重大事件を時系列で整理しておけば
大河ドラマ「花燃ゆ」の理解にも、本の通読にもお役に立てるかな、
と思います。



1853年(嘉永6年)6月
アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー率いる4隻の
軍艦が、江戸湾入口の浦賀に現れます。
いわゆる黒船到来というものですね。
日本の近代の幕開けとなります。

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引用 http://ameblo.jp/hakkouichiu/entry-10043645004.htm...


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引用 http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-...


この時、吉田松陰23歳。
脱藩の罪で家禄没収、士籍はく奪の処分を受けていましたが、松陰の
才を惜しむ藩主の計らいにより10年間の遊学を許され、畿内を経て
江戸に出てきていたタイミングでした。



ペリーは開国と通商を求めるアメリカ大統領の国書を幕府の役人に
渡し翌年の回答の約束を取り付け、いったん退去します。



この時の責任者は主席老中の阿部正弘。

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http://www2.plala.or.jp/shyall/retuden/bakuhu.html


彼は慣例を破ってペリーの件を京都の朝廷に報告し、諸大名や幕臣らにも意見を求め、
国をあげてこの難局に当たろうとしました。


幕府が朝廷にお伺いを立てるなど未だかつてなかった事。
そして一般諸大名にまで意見を求めるなどありえなかった事なのです。


幕府というのは高く大きな山であり、天であると思いこんでいたものが
意外なことにもっと低いものであるという印象を与えたであろうことは
間違いないところです。


老中阿部正弘のとった前代未聞の対応は、勝海舟に代表されるように
身分は低くとも有能な人材が世に出る機会を与える一方で、朝廷や雄藩が
その後の幕政に関与する機会を与えることになってしまっただけでなく、
朝廷を巻き込んだ尊王攘夷運動に火をつけるきっかけにまでなってしまった
のです。


時の天皇は孝明天皇で、異人が大っ嫌いな方でしたから攘夷派には
うってつけのお神輿になりました。



攘夷熱が沸騰してきます。



1854年(安政元年)1月 ペリー再来航。
開国を強く要求します。



1854年3月 日米和親条約を締結。



この条約の内容 ①アメリカ船に食糧・燃料・水などを供給する。
        ②下田・函館を開港する。
        ③アメリカ領事を駐在させる。
        ④アメリカに対し最恵国待遇をする。



この事を知ったイギリス・ロシア・オランダとも同様な内容の条約を
結ぶことになり、200年以上続いた鎖国体制は終わりをつげました。



なんだか日本史の教科書の復讐みたいで懐かしいでしょ?



ペリーが帰途に就く直前、松陰が従者の金子重輔(しげのすけ)とともに
下田に停泊中の軍艦に小舟で近づき密航を申し入れたが断られます。
松陰この時24歳。
下田の役所に自首して出ます。



1858年(安政5年)6月 日米修好通商条約を締結。



この条約の内容 ①神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港する。下田は閉鎖。
        ②江戸・大阪での開市。
        ③開港場でのアメリカ人の居留を認める。
        ④日米両国民の自由な通商を認める。
        ⑤日米両国の協議による関税の決定。
        ⑥アヘンの輸入禁止。
        ⑦領事裁判権を認める。



⑤、⑦などは日本を見下した不平等条約で、この条約解消の為にこの後
幕府および日本政府は辛酸を舐めることになります。



この後、ロシア・フランス・イギリス・オランダとも同様な条約を結んでいきます。




この条約の締結を決断したのは大老の井伊直弼で結局、朝廷の勅許を得ぬまま
調印してしまいます。


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http://blog.goo.ne.jp/ryuji58517/e/f778a5d1ac4d0da...


攘夷派から非難ごうごうの嵐が起こりますが、有名な安政の大獄という厳しい
反対派取り締まりを断行していきます。



吉田松陰もこの大獄で斬首されています。
この時29歳。



幕府に対する不信感も大きく膨れ上がり単なる尊王攘夷からやがて「倒幕」の考え方
が目を吹きだしてきます。



攘夷熱が沸点に達しようとしてきます。



次回へ続きます。

吉田松陰と時代背景1 [時代背景]

吉田松陰と聞くと日本人としてまず思い浮かぶのが「松下村塾」ですね。





そして吉田松陰に対する深い知識がないにも関わらず、吉田松陰に対して
悪い印象や感情を持つ人が極端に少ないのも事実です。




よくわからないけれど「尊敬できる人」という気持ちが大勢の方に共通
している感覚だと思います。




その根拠として幕末の勤王志士達を感化し、明治という新しい時代を開く
にあたって、その出発点としての教育を行った・・・という事実とかも
関係しているのは確かです。





事情がどうであれペリー来航以前からヨーロッパ列強によるアジア進出が
進み、このままではいずれ日本も列強による属国となるやも知れぬという
恐怖を伴った危機感をいち早く覚えたひとりが吉田松陰でした。

Yoshida_Shoin2.jpg
引用 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/83/Yoshida_Shoin2.jpg


ご存知のように江戸時代は鎖国の時代でした。
日本人の海外渡航は禁止されていました。
同様に在外日本人の帰国も禁止されていました。
また、対外貿易は例外的に長崎の出島で、オランダと中国のみを相手に
許可されていました。




逼塞感(ひっそくかん)はあるにせよ徳川幕府体制の下で太平の世が約
300年間続いてきたわけです。




それがペリーによる強行外交に屈する幕府を目の当たりにした時、恐怖を
伴った危機感は一気に幕府に対する不信感へと増幅していきます。




こうして倒幕⇒明治維新へと時代は大きくうねり始めるのです。




そういった時代背景が崩れていく時代に登場してきたのが吉田松陰です。
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