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攘夷運動家たちの開国反対の理由 [その他]

攘夷運動家たちの開国反対の理由




攘夷を唱える運動家たちの根拠は幕府の弱腰外交に対する民族的プライドを傷つけられた
ことが原因の発端でした。

ですが、条約の内容が知れ渡るようになるとさらに開国反対運動は激化していきます。






開国貿易論は貿易亡国論に等しい、と攘夷運動家たちは考えていました。
開国し、貿易を行えば外国に対して売る物産が少ない日本は外国の物産を購入するばかり
で、日本の金(かね)が湯水のごとく海外へ流出していってしまう。




また、少ない物産を貿易のため外国に売りさばいては物価が上がりついには日本は
経済的に破滅せざるを得ない。
幕末での現状では当然の懸念材料でした。
このことも攘夷を唱える理由になっていました。




実際、日米修好通商条約によって通商が解禁になると生糸や茶の輸出が激増し、国内
物資の不足を招き、これに商人などによる買い占めも手伝い、急激な物価高騰が起きて
きます。
これにより下級武士や庶民生活の生活は窮乏していきます。




また、日本の保有する金(きん)がいいように海外に持ち出されてしまいます。




当時、日本国内では金と銀の交換比率が1:5でしたが、海外では1:15だったのです。
外国商人や船員までもがこれに着目し、わずかの銀を持ち込んでは大量の金を持ち出し、
自国や他国に持ち込んで簡単に大儲けしています。単純にいきなり3倍の利益を彼等は得
ていたのです。
貴重な金貨がみすみす大量流出していたわけです。




このような状況下で一人貿易の利益を享受するのは幕府のみで、諸藩に対しては開港の
許可を与えず、諸外国に対しても幕府との独占貿易ということで了解させていました。
これでは幕府の武権を頼りに攘夷運動していた活動家も嫌気がさしたことでしょう。




もし、幕府が諸藩の港を開港させ、その貿易利潤を広く与えていく考えの元に開国に
踏み切っていたならこれほどまでの大反対運動は火を噴かなかったと思われます。




しかし幕府にとって大事なのは徳川家一家の安泰と利益であり、それを守るためにのみ
汲々として今日に至っています。




貿易によって日本国内の物産がなくなり、経済が混乱することに対する対策として物産
を新たに作っていく方法を講じるにせよ、徳川幕府のもとではそれも幕府のためだけの
施策となっていくであろう、と考える時、「そんな幕府は要らない」という思いがふと
頭をよぎるのではないでしょうか?




意識の水面下で「倒幕」の二文字が揺らぎ出し始めます。




特に長州藩においては関ヶ原の敗戦以来の徳川憎しの潜在意識が残っていたのではない
でしょうか?
藩士の多くは理由も分らずにですが、しきたりであるが如く西枕で寝ていたそうです。
足を東に向けて寝る・・・つまり江戸・徳川に足を向けていたというわけ。




久坂玄瑞ら長州藩士にして最初に「倒幕」が意識されてきます。



攘夷論解説 [その他]

攘夷論解説




単純攘夷論・・・西洋人を獣類、侵略者と決めつけ、西洋列強の技術
        文明の協力さと恐ろしさを知らず、日本島をもって
        一刀両断できると信じ切っている幻想論。




小攘夷論・・・異人など切ってしまえ。異人など日本に入れるな。
       という単純な外国人を排斥したいとする考え方。
       未知である外国の力に対する恐怖と日本人と
       してのプライドが引き起こす感情論。

       幕府が諸外国と締結した不平等条約を破棄させた
       いとする感情論。




大攘夷論・・・小攘夷論のような破約攘夷論ではなく、ここはむしろ
       広く世界に通商航海し、世界の実情実力を確認し、
       もって国力を高めたうえで諸外国に対抗していこう
       とする考え方。




尊王攘夷論・・・天皇のもとに団結し、夷敵を撃ち払おうという考え方。
          最終的に薩長によるすり替えで倒幕の代名詞となる。

(最終段階で即今攘夷の意思は既に持っておらず、攘夷を
        行わない幕府を倒す、という論理のすり替えを行って
        いますね。ここに至って、攘夷も開国も思想や主義でなく
        幕府打倒のための戦略と化しているわけです。)



吉田松陰の攘夷論  



時期としてはペリーが再度来航し、威圧的に日米和親条約の締結を迫った頃のこと。




他の多くの仲間同様に「断固、屈するなかれ」という攘夷論
でした。




ただし松陰は鎖国主義者ではなく、海外の実情を把握し、そ の上で対策を練るべきである、という考え方をしていました。




ただ、強要されて屈服するのは一国一民族の恥であり、敗北
であり、それでは日本民族は自立の生気を失うであろうという
民族的自尊心を背景にしていました。




脅されて調印させられるなど言語道断であり、それくらいなら
断固戦うべきである、という主張ですね。




基本は大攘夷論ですが民族的自尊心という面からは小攘夷論 というところでしょうか。


        
         
しかも、戦いとなった場合松陰は「勝てる」と考えていました。
『海戦策』という必勝策を書き上げ、藩主に奉っています。




内容は先ず海戦を行い、次に内陸戦を行い、それで終わる、と
いうもので、50艘の小舟で夜陰に乗じて敵艦に近づき大砲で火
災を起こし小銃で騒ぐ異人を狙撃し、ついで敵艦に乗り込み白
兵戦を行い艦ぐるみ奪ってしまう。




敵艦がこの勢いに驚いて逃げればそれでよし、逃げずに陸戦隊
を上陸させてくるならば地の利を生かしたゲリラ戦で敵を殲滅
するは極めて容易である・・・というものでした。




さらには、敵は本国に帰り体制を立て直してほぼ1年の後に大挙
して襲来するであろう。
その間に洋式兵器を整え、日本中の武士に洋式訓練をほどこして
敵を待つ、というものでした。




実はこの松陰理論が松陰亡き後の攘夷運動の理論的支柱になり、 外国人に対して攘夷を行って、それがために戦争が起ころうとも 必ずや勝てる、という妄想を植え付けることになってしまいます。




そのため攘夷志士たちは後にすさまじいばかりの攘夷運動を展開
していきます。




ただ、この時点においては「倒幕」という考え方はまだ出てきま
せん。日本の武権を統括しているのは徳川幕府ですから、幕府の
尻を叩いて立ち上がらせ、外国を打ち払わせるという考え方でした。



後に松陰は幕府にも諸大名にも公家にも期待できないとわかると
草莽崛起論(そうもうくっきろん)を提唱します。




幕府も公家も諸大名も当てにできないならば、諸藩の有志が連携して
自主的に攘夷を実行すべきである、という意見です。



久坂玄瑞はこの師の教えを体現すべく江戸と京で精力的に活動し、
禁門の変で自刃して果てる迄、久坂玄瑞は師の攘夷論を信じ攘夷運動
を展開していきます。




しかしながら長州藩が行なった四か国連合艦隊との闘いにおいて
無惨なばかりに敗れます。
薩摩しかりです。




この松陰戦術が現実の戦争において空論にすぎないことが実証さ れてしまいます。



          
ここにおいて松陰戦術は理論的指導能力を失い、単なる攘夷運動から     
開国を考慮に入れた倒幕運動へと変化していくのでした。



          
高杉晋作は四か国連合艦隊との闘いまで松陰の攘夷論を信じて戦い
ます。後に上海に遊学して列強の文明の強さを肌で知り、攘夷から
倒幕へと進路変更をしていくのでした。


         
          
倒幕のための大義名分が尊王攘夷でした。
この段階では誰も本気で今までの攘夷など考えていなかったんです。



          
考えていたとすれば徳川政権を兎に角早く倒して、議会主導の国家
体制をつくり、一日も早く富国強兵を実現して列強の侵略に対抗で
きる実力をつけることだったでしょう。




大攘夷論ですね。



          
列強と戦って万に一つも勝ち目がないことが分かった時点で歴史は
そのベクトルを180度変えていくのです。



          
この時点で徳川家が一番の貧乏くじを引くことになってしまいました。



          
幕府にすればその情報収集能力でいち早く列強の力を認識しており、
現状とても戦にならない認識のもと、開国に踏み切るわけですが、
周囲からは攘夷、攘夷のプレッシャーを受け、いざ大政奉還してみたら
維新政府は攘夷どころか外国と通商しているではありませんか。
外国を研究して追いつこうとしているではありませんか。


          

屈辱的開港と屈辱的不平等条約と異国という未知の勢力に対する
無知ゆえの恐怖心、中国はじめ侵略されたアジア諸国の二の舞に
なるやも知れぬ恐怖心・・・こうした国民的プライドと植民地化されるや
も知れぬ恐怖心が攘夷、攘夷の嵐を吹き起こしました。

          


幕府に対する期待外れ感、絶望、怒り。
松陰流の「夷敵恐るるに足らず論」
浮上してくる尊王思想。
外国と戦って知った真実
国体改善の必要性の実感
徳川家邪魔 徳川幕府邪魔
無理やりの倒幕の為の大義名分の尊王攘夷論


          

こんな流れかと思います。
          


          
天皇のもとに議会政治を行い列強に対抗できる国家体制を作る方向へと
歴史は動きます。
「攘夷」という言葉は「列強に対抗できる国家体制作り」へとすり替わ っていったのです。


          
徳川家を議長に議会を開催するという意見もあったのですが、薩摩・長州の
革命軍にとっては徳川家という存在が感情的にも邪魔くさいものだったのでしょう。
恭順の意を表している最後の将軍・徳川慶喜を追い詰めていきます。






こういう認識ですが間違っていたら是非ご指摘ください。





攘夷志士たちの怒りのもう一つの原因





日米和親条約で下田と函館が開港されますが、そうなればそこで貿易が行われるわけで
すが、この2か所は幕府の直轄領なんですね。




ということは幕府だけが貿易の利益を享受するわけで他の諸大名には何の恩恵ももたらしません。




幕府にしてみれば次の日米修好通商条約での開港地も直轄領にしておけば幕府としては
何の問題もない、ということになります。




こういう点も幕府非難の根拠になっていたんですね。
幕府主導の開国など幕府だけのものに過ぎない・・・そんな幕府など要らない・・・
「倒幕」の必然性が発想されてくるわけです。
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