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吉田松陰と愛弟子たち4 《高杉晋作ー1》 [吉田松陰と愛弟子たち]

高杉晋作の生涯<前半>


1839年(天保10年)高杉家の一粒種で誕生。
書き方悪いですかね。
唯一の男子が晋作で、後に3人の妹が生まれています。



晋作の家は中級程度の上士の家柄といったところ。
石高は250石。



0047_l.jpg
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/121.html?c=0



代々、藩の中級官僚として小過すらなく無難に勤め上げてきた家でした。
全てにおいて穏やかに過ごし、周囲との調和を旨とする代々でした。
晋作はその高杉家の一人息子で風邪ひとつひかせぬように大事に育て
られました。



武士の家ですからそれなりの厳しさもあったこととは思いますが、
どちらかといえば甘やかされて育ったようです。
大人の偉さや世の権威など深く認識することなく、ありていに言えば
わがまま育ち。



しかし、両親に対する孝心と藩主に対する忠誠心は人並み以上をはるかに
凌駕するものがありました。
倒幕という革命運動に命を的に突き進む晋作でしたが両親と藩主への
配慮は並大抵ではなかったのです。



そういえば晋作は小さい頃から経書を読むより詩歌を好み、「先陣の
大将」になることが望みでした。



封建制度の身分秩序を上士の身分でありながら破壊し、その先頭に立つ
自身を現実化したのは晋作の持って生まれた性格、家庭環境、そして
吉田松陰という師との出会いがあったからでしょう。


高杉晋作と吉田松陰の出会いは1857年(安政4年)11月を過ぎたある日。
杉家の庭にあった物置小屋を講義室に修繕し終わってしばらく経った頃
のことでした。



松陰27歳。晋作19歳。



晋作を松陰に紹介したのは中谷正亮(ショウスケ)。松陰の門下生であり友人
でした。
晋作を誘ったのは久坂玄瑞だという説もあります。



晋作は藩校明倫館に通っていましたが、十年一日のごとく訓詁(くんこ)を
押し付けられる学習に飽き飽きしていました。
その上、明倫館では学生が時事を論ずることを禁止していました。
晋作にとっては面白くなかったわけです。



剣術の稽古や詩歌の創作に力を入れていました。
松下村塾の噂はずっと以前から耳にしていました。
そんな折り、知人の中谷正亮に半ば強引に誘われて松陰に会いに出かけます。



松陰から晋作に自作の詩を披露するよう言われます。
晋作は内心「俺の実力をみせてやろう」と自信のある詩を松陰に見せます。
「どうです、なかなかのもんでしょう」という得意げな様子が松陰には見て
とれました。



松陰は一応褒めはしますが、こう言います。
「久坂玄瑞には及ばない」と。



久坂玄瑞は晋作の一つ下です。
医者の卵で、明倫館に在学中はかなり優秀だった、という噂はかねがね耳に
していました。



晋作、ショックです。



玄瑞に紹介された時、こう思います。
「こんな奴に負けてたまるか」
俄然、ライバル心を掻き立てられ、その日以降、毎晩、家をこっそり抜け出し
ては松下村塾に通うようになります。



大人というものを尊敬することの少ないこの晋作が松陰に対し心惹かれ、
やがて心酔していきます。



松陰は晋作を一目見て、久坂玄瑞とはタイプの異なる異才をもつ晋作の出現に
内心喜びますが、最初にやったことは晋作の鼻っ柱を簡単にへし折ることでした。
「久坂玄瑞には及ばない」と。
やがて晋作は玄瑞とともに松下村塾の双璧といわれるまでに成長していきます。



いいですねー。
若さですね。
玄瑞も最初は松陰からこっぴどくやられてましたね。




玄瑞も晋作も師・松陰から「狂」を学び「覚悟」を教えられなければ平凡な
侍として生涯を終えたかも知れません。




「世の中に認められたいから学ぶのではない」
「人間として恥ずかしくない生き方をするために勉強しているのです」
「周りから何と言われようとも正しいと信じた道を歩こう」
「世の中に風穴をあけるには覚悟が必要です」
「諸君、狂いたまえ」




晋作は江戸へ遊学することになります。
当時の最高学府「昌平黌」(しょうへいこう)で学ぶようにとの藩命でした。





その江戸在住中、松陰が幕府から江戸召喚を命ぜられ、小伝馬町の獄に入ります。
大老・井伊直弼による安政の大獄に連なる嫌疑のためでした。
1859年(安政6年)7月でした。



当時の獄舎は文字通り地獄の一丁目でした。
牢名主や牢番に金を付け届けしないと理不尽を超えた仕打ちを受けたりします。



晋作は八方手を尽くして師のために金策に走り回ります。
けなげですよね。



そのおかげで松陰は牢の中で平穏に過ごすことができ、手紙や弟子たちに残す
文書も書くことができました。



晋作はこういう質問をしています。
「武士はどのような死に方をすればよろしいか」



松陰は答えています。
「死して不朽の見込みあらばいつでも死んでいい。生きて大業の見込み
あらばいつでも生くべし」

不朽の見込みとは永遠に名を残すことをいうんだと思います。



師がどのような処分になるのかわからぬまま藩命で急きょ長州へ帰る
ことになります。




1859年(安政6年)10月27日 師・松陰が処刑されます。





晋作が長州に戻ると縁談話が待っていました。
相手は高杉家よりやや上位の家柄の井上家の娘・お雅でした。
お雅は長州一の美人の呼び声高い娘で多くの縁談申し込みがあった女性です。





晋作が師の死亡を知ったのはこの縁談が決まった後でした。
当時は情報というものは人が歩く速さで伝わったものなんです。
萩一番の美人との縁談話は晋作にしても内面に渦巻く志からすると複雑な心境
ではあったにせよ喜ばしい気持ちもあったのではないかと勝手に想像してみたり
するのですが、要するに縁談が決まってから師の死を知ったわけで喜びもいっぺんに
吹き飛んだことでしょう。





目の前が真っ暗になるような名状しがたいショックを受けます。
この日、晋作は松本村に走り、松陰が閉居していた三畳の部屋にあがり、
夜更けまで呆然と暮らしました。




神のごとく尊敬していた松陰の死は心を凍らせるものでしたでしょう。



「この人の志を継ぐ者は、自分しかいない」



・・・晋作は密かに決意します。





婚儀は明けて1860年(万延元年)1月23日 晋作20歳でした。


松陰の江戸召喚の詳細についてはこちらを参照してください。



それから2年程は比較的穏やかな日々が続きました。
穏やかといっても晋作の心中は「何をなすべきか」で揺れ続けていたのですが。



鬱々とするある日、海軍教習所に入ることを思いつき頼み込んで入所させて
もらい、江戸までの練習航海に参加したりしています。



船酔いが酷く、自分にはとても合わないということであっさり諦めてしまいます。
そのまま江戸で学問修行の名目で滞在しようとします。
藩はこれも了解します。
簡単に書いていますが当時こんな勝手などとうてい他藩では考えられません。
長州藩は若い者に甘いですね。




江戸に置いておいては何をしでかすか心配でならない父親・小忠太は再び晋作に
長州へ戻るよう指示してきます。


父・小忠太は藩の重役ですから晋作を呼び戻す小細工など簡単にしてのけます。


仕方なく戻ることになりますが真っ直ぐ帰らず、信州松本に立ち寄り師・松陰の
師匠である佐久間象山を訪ねています。
しかし、どうやら佐久間象山とは気が合わなかったようです。





そんなこんなで長州へ戻ると藩校明倫館の明倫館舎長という職務を命じられます。
学生たちの面倒をみる大将みたいな役職で若い書生たちのあこがれの役職でした。
ついで世子(せいし)毛利元徳(モトノリ)のお小姓役に抜擢されます。
旅から帰って4ヶ月しか経っていません。1861年(文久元年)3月の初めです。
晋作22歳になっています。
高杉家の嫡男ということもあるのでしょうが、晋作に対する藩の人事態度は常に
寛容と好意に溢れています。



しかし平穏な日々は瞬く間に終わります。



江戸湾の警備要員として江戸へ立つよう命令が下ります。
世子お小姓役拝命から4ヶ月も経たない6月半ばのことです。



実はこの人事、久坂玄瑞ら江戸長州藩邸詰めの松陰門下生たちの策略で、晋作を
お番手として江戸へ呼ぶ人事を画策したものでした。



この時期の江戸の長州藩邸といえば過激書生の巣窟でした。



一頃の水戸藩に代って「外国人など斬ってすてるべし」という単純攘夷論の
卸し問屋のような定評ができあがりつつあった時期です。



もちろん長州藩全体がそうであったのではなく、江戸にいる松下村塾系の書生
たちのことで、彼等は藩の上層部を脅迫したり、他藩の志士と連絡を取り合ったり
して世間の印象では一見彼等が藩を動かしているかのように見えたのでした。




この松下村塾系長州書生党の弱点は総大将となる人物を欠いていることでした。




確かに桂小五郎は思慮深さや同志に対する親切心があり、人望もありますが、
自ら時代の局面を切り開くという創造的な才能は持っておらず、その点は松陰お気に
入りの久坂玄瑞も同様でした。



玄瑞は議論の鋭さにおいては桂小五郎よりもはるかに優れており、ひとたび口を
開けば聞く者を引きつけずにはおかない情熱が迸ります。
しかしそこまでのことでありました。
玄瑞は激越すぎるために前の前、次の次を見通す戦略的感覚に乏しく、この若き
長州書生党の首領というには相応しくなさそうです。



水戸藩の藤田東湖や薩摩藩の西郷隆盛に匹敵する素養を持った仲間としては
高杉晋作しかおらず、それは桂も玄瑞も他の同志も等しく認めるところだったようです。
そこで密かに藩庁に運動して晋作を江戸へ来させたというわけ。



1861年(文久元年)7月30日 晋作が江戸桜田の長州藩邸へ入ると同志たちの歓呼
の声に迎えられます。



いよいよここから晋作が歴史の舞台に登場してくるのです。。





周布政之助 理解 相談役
桂小五郎 顧問 理解 相談役 兄貴分
高杉晋作 総大将
久坂玄瑞 言論&実行隊長

こういう位置ずけになります。



後の功山寺挙兵を考えると、なるほど自ら時代の局面を切り開くという創造的な才能
は晋作にしかありえなかったと納得できます。


晋作にせよ、玄瑞にせよ故郷に妻を残したまま政治活動に熱中していくんですね。
現代ではちと考えられなさそうですが。
ま、それほどに時局が切羽詰まり始めた時代だったせいもあるのでしょう。
国家を救わずして家庭の平和もない・・・そんな感覚があったのやも知れません。
いや、国事に奔走することこそが男子一生の仕事と割り切り、あえて家庭を顧みない
道を選んだのでしょう。
そう思います。
妻の立場としては寂し過ぎたと思われますが。




さてこの頃、長州藩の頭脳と謳われていた長井雅樂(ナガイウタ)による「航海遠略策」が
朝廷と幕府の両方から注目を浴びていました。



長井雅樂は長州藩の名門中の名門で代々藩の重職を担ってきた家柄です。
長井は藩主・敬親(タカチカ)の要請を受け、この混乱の時勢の解決策を提出します。
「航海遠略策」とは朝廷と幕府が協力して開国・貿易を行い、国を富まして、軍備を
整え、異国の侵略に対抗していこう、という考え方です。



この考え方は先ず攘夷優先の考え方の攘夷志士である松下村塾系の久坂玄瑞や高杉晋作らの
意見と真っ向対立するものでした。
また、「航海遠略策」の対抗理論から必然として「倒幕」概念が発生してきます。
その詳細はこちらを参照してください。




久坂、高杉らは長井暗殺を企てます。
長井に対する憎しみには師・松陰を刑死に追いやったのは長井である、という誤解も
含まれていました。




暗殺計画の首謀者の一人である高杉には周布政之助が一計を案じています。
晋作を罪人にしたくなかったんですね。



貿易開始にあたりその実務を学ばせるために幕府が優秀な人材を上海に渡航させる計画
があって、その長州藩代表に周布は高杉を選んで長井暗殺に参加できないようにしたのです。



晋作の上海渡航 1862年(文久2年)5月



ちなみに、晋作はこの上海渡航を通じて「倒幕」、「革命」の必要性を強く認識するに
いたります。彼にとっては「攘夷」はそのための「方便」と化したのです。



開国も貿易も軍備の西洋化も必要であることを認識した上で、あえて「攘夷」という
非常識をもって「革命」に当たることを決意したのでした。


常識では革命は成しえない・・・というのです。



晋作にとって「攘夷」は大手品のタネとシカケになったのです。
これは師の吉田松陰さえも持たなかった戦略理論でした。



以後、以前にも増してわざと「攘夷」「攘夷」と大声でわめき散らすようになります。






さて周布政之助ですが、、久坂玄瑞に対しても長井暗殺を思い止まるよう説得しますが、
逆に玄瑞に説得され、藩主に会うべく二人して無断で江戸を離れます。そのため、二人は
長州へ帰らされ、自宅蟄居処分を受けています。





そうこうする間に皇女和宮の江戸降嫁が実行され、また坂下門外の変が起きます。
この間も「航海遠略策」は正式な藩論となろうとしていました。





やがて二人とも蟄居を許され、周布は江戸へ、玄瑞は兵庫へ向かうべく藩命を受けます。





この頃になって一時もてはやされていた「航海遠略策」に対して朝廷から天皇を誹謗する
文言がみえる、ということで長井雅樂の個人的責任を追及する風が吹き出します。
玄瑞が盛んに言い触らした成果がでてきたのです。
藩主・敬親は朝廷から叱責を受け、長井を長州へ帰らせます。




帰国途中の長井を襲うべく玄瑞を中心に6人の暗殺団を結成して草津方面に出向きます。
しかし、その気配を察した長井にうまくかわされてしまいます。




暗殺団のうち伊藤俊輔をのぞく5人は京都藩邸に入り、長井襲撃失敗の旨を記した
待罪書を玄瑞と他2人の連名で提出します。



3人は藩邸近くの法雲寺で約100日間謹慎となります。



やがて長井は切腹することになります。




ここでは余談になりますが・・・

謹慎が解けた後、偶然玄瑞はある女性と再会します。井筒タツです。
辰路(タツジ)という名で芸妓をしていました。
攘夷活動家・梅田雲浜(ウンビン)を訪問した際に知り合いになっていた女性でした。
二人はこの日を境に恋人になっていき、玄瑞の死後に井筒タツは玄瑞の子を出産します。




さてこうして時間はまた過ぎていきます。



晋作は「御楯組」(みたてぐみ)という攘夷決行の決死隊を創ります。
大将は晋作、副将は玄瑞、メンバーは井上聞多、寺島忠三郎、赤根武人()、品川弥二郎ら
松下村塾の門下生21名。



文久2年12月12日 江戸品川の妓楼「土蔵相模」に集合。
晋作の提案で江戸・御殿山の英国公使館を焼き討ちします。
幕府を困らせるのが狙いです。



初め、玄瑞は異人を殺したり、公使館を焼き討ちしたりすることに反対していました。
そんな小さい事ばかりでは埒が明かない、長州藩一体となって藩の力で外国船を攻撃し、
戦争に持ち込むことこそが真の攘夷だと主張するのです。
そして戦えば必ず勝つと信じていたのです、久坂らは
師・松陰の海戦策の無力をまだ知らない状態なんですね。




対して晋作は上海で外国の文明の力や軍事力の大きさをその目で見てきています。
とてものこと戦えるものではないことを十分承知しています。
ですが晋作、黙っています。
今そのことを言ったところで到底分かってはもらえないし、長州藩を焦土とすることで
革命の火ぶたが切って落とされるとの考えあっての沈黙でした。




さて御殿山の英国公使館の焼き討ち犯人は長州藩の者であろうと幕府は薄々推測して
いましたが、断固たる態度には出ませんでした。
この当時の江戸在住の長州藩官僚の多くは公武合体派が多く、まともに長州藩を詰問して
長州藩をわざわざ敵に回したくないとの考えがあったからでした。




焼き討ちに参加したメンバーのほとんどは事件後、藩命により国詰めになったり、
京都詰めになったりして江戸から消えています。



ただ晋作は一人江戸に残ります。
次の企画が彼にはあったんです。



焼き討ち事件の翌年1863年(文久3年)




正月5日の朝 晋作は騎馬で桜田藩邸を出発します。
そのいでたちは黒塗りで金の定紋入りの陣笠をかぶり、白緒であごを引き締め、陣羽織
を着込むという戦さ装束で、大身の槍を中間に持たせるというイヤでも目立つ仰々しさです。



従う伊藤俊輔ら4人の同志は笠、裃(かみしも)をつけた喪服姿で、さらに人夫6人に
大甕(おおがめ)と鍬(くわ)を持たせて小塚原に埋められている師・吉田松陰の遺骨を
世田谷村若林の大夫山にある毛利家の別荘地に改葬しようというのです。



途中、正月でにぎわう上野の盛り場の雑踏の中を堂々と行列を進め、将軍しか通れない
とされている御成橋(おなりばし)を橋番の制止を無視して通過してしまいます。
将軍専用の橋で他の人間が渡れば首をはねられるのですが、晋作、もとより死を覚悟の
行動で、一向に気にしません。
どころか将軍家茂の名を呼び捨てにしてもいます。




この時期、江戸で何かをしでかして死ぬことが晋作の心を占めていました。
これをやったら幕府はどう出るか?それが知りたい、という晋作でした。
そのために死罪となってもよい、と決めていたのでした。




これだけ堂々と幕府や将軍家を小馬鹿にした所業は江戸時代始まってから一度もなかった
事です。




これほどの事件でも幕府は不問に付しています。
長州藩が攘夷か公武合体かの藩論が決定的に定まっていない現状で長州藩を
敵にしたくないのですね。




驚いたのは国許にいる藩主父子でした。
このまま晋作を江戸に置いていたのでは又何をしでかすか分からない、ということで
急いで晋作を国許へ呼び戻します。




この帰国の途中、晋作は白昼堂々、箱根の関所で関所破りをしています。
徳川300年の歴史の中で公然と関所破りをしでかしたのは晋作ただ一人です。




また、やはりこの帰国の途中、京に入った時、ちょうど将軍が天皇に拝謁のため京へ
上洛していました。この将軍上洛、天皇とともに賀茂行幸ついで石清水八幡宮にお伴を
することになっており、石清水八幡宮に詣でさせ「即時攘夷」を誓わせる段取りになって
いました。



もちろん長州過激派の玄瑞らの画策でした。



晋作は賀茂行幸の華麗な行列を他の人達に混じって、加茂河原にひざまずいて見物して
いました。
そして将軍・家茂が前を通過すると立ち上がって「いよう。・・・征夷大将軍」と
大声でからかうように声をあげたのです。
これも徳川時代を通じて初めての出来事です。



このためもあってか、幕府は長州藩を目の敵にし始めます。
この後、さかんに宮廷工作を行い、親幕府派の親王や公家をあつめ、長州藩の戦略を
封じ込めようとやっきになってきます。



その風潮を敏感に感じ取り、同調したのが薩摩藩でした。
薩摩藩も藩論の基本は公武合体ですが、西郷隆盛や大久保利通などは内面に「攘夷」の思いを秘めて
います。その西郷や大久保にとって本来は共に「攘夷」を目指すはずの長州藩が目障りで
なりません。
あまりにも長州藩だけが攘夷運動において目立ち過ぎているからです。



薩摩も土佐もでき得れば自分が攘夷運動のリーダーでありたいと内心は思っていたのですね。
要するに嫉妬、やきもちがあったのです。



何とかして長州の足を引っ張りたいと思っていたので、この波に乗っていくことになります。
これが後に八月十八日の政変につながります。




さて晋作、将軍が京に滞在しているこの機会に将軍・家茂を暗殺する計画を立てます。
21名の決死隊を組織してチャンスを待ちますが、仲間のしでかしたちょっとしたミスで
将軍の行列への切り込み計画は未遂のうちに終わります。




この後すぐに晋作は頭を坊主にしてしまい、周布政之助の元を訪れ、僧になって十年藩を
離れたい旨を告げます。
武士が勝手に髷(まげ)を切るのは御法度でした。
それが十年は政治から離れ僧となって暮らしたいからその許可をくれ、と周布に頼み込んで
いるんですね。



将軍暗殺も出来なかった今は何もすることが無くなった、と彼は感じたんですね。
晋作は坊主頭で萩に帰っていきます。

なんと短い期間に様々な事をしでかしてきてますね、晋作は。
すべて命を捨ててやってきています。

萩に戻った晋作は山中の山小屋を庵として使い出家生活に入ります。
どこまで本気なのか本人にもよく分りません。



しかし歴史は晋作にのんきな隠遁生活を許しませんでした。




晋作が隠遁生活を始めて1か月過ぎようとする頃、長州・下関で戦争が始まったのです。
これは幕府が苦し紛れに出した「5月10日をもって攘夷を決行する」という言質(げんち)
を取った玄瑞らが起こしたもので、関門海峡を通過する外国船に向けて発砲したものでした。
緒戦こそ不意打ち攻撃で戦果を挙げはしましたが、外国の軍艦が出てくると完全な負け戦に
なってしまいます。




晋作は急きょ、藩主直々のお召を受けます。
藩主は過去の脱藩の罪を許し、馬関防衛の指揮官に任じます。





以降については吉田家と愛弟子たち5《高杉晋作ー2》に続けます。
ご精読ありがとうございました。


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