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吉田松陰と愛弟子たち5《高杉晋作ー2》 [吉田松陰と愛弟子たち]

高杉晋作と功山寺挙兵




1864年(元治元年)7月19日の禁門の変で久坂玄瑞が自刃して果て、
長州藩は再び京を追われ逃げ帰ります。





幕府は禁門の変の戦果で自信を回復し、長州討伐を決定します。
討伐軍の責任者・総督に選ばれたのは前尾張藩主の徳川慶勝(ヨシカツ)。
慶勝は全権委任を条件に渋々ながら役目を受諾しています。





徳川慶勝
img_12.jpg
http://blogs.yahoo.co.jp/digital_devil0611/archive...






表立って関わりたくはなかったのでしょう。
その代わり自分の判断や仕置きについて幕府首脳といえども口を
出すな、という条件をつけたのだと思います。






幕府首脳としては、この際、長州藩を攻め滅ぼしてしまいたかった
はずです。会津藩にしても思いは同じだったはずです。
長州藩の息の根を止めてしまえば攘夷運動は下火になることが目に
見えていますからね。






当初、会津藩と薩摩藩を主力に西国諸藩計20藩が一斉に各方面から
長州藩に襲い掛かり、半年以内には全ての決着をつけるつもりで
幕府首脳はいました。






ところが薩摩藩が様々な理由を立てて従軍を回避しようとするのです。






なかなか攻撃開始命令が出せません。
会津藩はヤキモキしたことでしょう。






初め、将軍自ら出馬ということであったのに結局は出てこないという
事実に、出陣してきた西国大名たちも内心やる気が薄れていたんじゃ
ないかと想像できます。






そして薩摩藩としては長州藩に謝罪、恭順の意を示させることで決着
を図ることを提案するのです。
なにもわざわざ戦争する必要ないよ・・・という主張ですね。







幕閣の思惑を無視して総督の徳川慶勝はこれに同意し、西郷隆盛を
参謀格として遇します。






隆盛は長州藩内で俗論党によるクーデターを起こさしめ、正義党を弾圧
させます。





また、禁門の変の主導者である3家老と4参謀の処刑を行わせしめ、
同時に藩主父子の蟄居、山口城の破却、匿っていた公家の九州移転が
確認できた段階で総督の徳川慶勝は早くも撤兵を命じました。
12月27日のことでした。





辛くも即時長州壊滅は避けられました。

長州藩は薩摩藩に助けられた形になりますね。






「いつかは長州と手を組む日が来るやも知れない」という展望に立つ
西郷隆盛の「長州に恩を売っておこう」という政略的な思惑でした。






ここに当代一流の謀略家としての西郷隆盛の凄味がみられます。
西郷の頭の中には既に「倒幕」が至近距離に置かれていたのかも知れま
せん。
それにしてもすごい腹芸ですね。






さてさて我らが高杉晋作は俗論党が藩政を握ったとみるや九州へ逃亡
しています。
正義党の政務役(執政)であり兄貴分のような周布政之助は9月25日に割腹
自殺を遂げています。
また松陰門下の同窓の井上聞多(モンタ)が同日の夜、俗論党の放った刺客に
襲われ、ナマスのように切り付けられ瀕死の重体に陥りました。






晋作は一人、九州の地で正義党復活のチャンスを狙っていました。






11月11日、12日 上記3家老と4参謀が処刑され、その4日後、長州
処分の予備会談が行われます。
本会談がいつになるかも未定の段階にある時、11月25日晋作は密かに
長州に舞い戻ってきます。






奇兵隊を中心に諸隊の軍事力をもってクーデターを起こし、俗論党政府
を倒す計画を考えたのです。





諸隊というのは身分を問わず志願制で出来上がった戦闘部隊で、禁門の変
で名をはせた来島又兵衛が編成した者たちの集まりですね。
単純攘夷の思想に凝り固まった戦闘集団で禁門の変から命からがら逃げ帰り
はしましたが単純攘夷の強い意志は変わりません。
四か国連合艦隊ともその後すぐに戦っていたんですね。






その奇兵隊や諸隊に俗論政府は解散命令を下しますが、今までの行きがかり上
おいそれと従うわけにもいかず、仕方なく長州藩の分家である長府藩主を
頼り、長府に集結しているとの情報を得ていたのです。





12月16日わずか80人という少なすぎる人数をもって晋作は挙兵します。





長州討伐軍の解散が12月27日ですからその10日あまり前ですね。
なぜ解散したのでしょう?





ちょっとこの辺理解に苦しみますが、総督の徳川慶勝にはまるでやる気が
感じられませんね。
俗論党政府を助けるべく動いてみるのが筋だと思うのですが、見て見ぬふり
で解散です。
もしかすると影で西郷隆盛から何か言われたのかも知れませんね。
あくまでも憶測ですが。





しかし、80人ですよ。
あなたが晋作なら挙兵しますか?





「革命」は「気」なんでしょうね。
初戦から小さな勝利を連続すれば状況は変わり、革命戦争に追従してくる
者たちも増える、と踏んでの決起だったと思います。





実際、下関の藩役所を皮切りに三田尻の海軍局を襲撃して勝利を収めると
それまで模様眺めしていた奇兵隊その他の諸隊が遅ればせながら参戦して
きました。
俗論党の戦闘集団は上士たちだけの集団でいざ実戦となると腰砕けで
あったのも幸いしました。
連戦連勝で味方も増えていきます。
そして太田、絵堂の戦いに勝利し、ついに俗論党を倒してしまいます。





やはり晋作は時代の局面を切り開くことのできる戦略的能力がずば抜けて
いますね。





この後、長州藩は桂小五郎をトップに、晋作、井上聞多、広沢真臣
(さねおみ)、前原一誠らを中心とした改革派(正義派)政権となり、
表向きは幕府に恭順を示しつつも内にあっては割拠独立のため軍備の
充実を急ぐ「武備恭順」体制を敷いていきます。









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