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吉田松陰と愛弟子たち3 《久坂玄瑞-2》 [吉田松陰と愛弟子たち]

松陰亡き後の久坂玄瑞を語るにあたり、1860年(安政7年)から
1864年(元治元年)までの4年間はまさに怒涛の時代で、この4年
間をしっかり時系列で確認しておかないと久坂玄瑞や高杉晋作の
行動の理解もあやふやになり兼ねないと思われるので一度整理し
ておこうと思います。



1858年(安政5年)6月大老・井伊直弼による日米修好通商条約が結ばれます。



安政の大獄が始まります。



1859年(安政6年)10月27日井伊直弼による安政の大獄に連座して吉田松陰が

             刑死します。


       


さてここから・・・・・・・・。






1860年(安政7年)3月3日 桜田門外の変 井伊直弼が襲撃を受け死亡。





※この当時、過激攘夷運動の筆頭は水戸藩でした。
 井伊直弼も安藤信正も水戸浪士に襲撃されています。





 この水戸藩ですが攘夷運動の指導者であった藤田東湖を亡くした後、
 藩内党争が激化し、攘夷運動が下火になっていき、時勢の中心から後退
 していきます。




※この時期、久坂玄瑞は師・吉田松陰の草莽崛起論(そうもうくっきろん)
 を実践すべく諸藩の有志と横のつながりを深めている最中でした。




 1861年(文久元年)には江戸で長州・薩摩・土佐藩の有志による会合を開いて
 います。この会合には有名な土佐の武市瑞山(タケチズイサン)も参加しています。
 武市半平太の名前のほうが有名ですね。




※1861年(文久元年)に長州藩の執政の一人である長井雅樂(ナガイウタ)が藩主・
 毛利敬親(タカチカ)の求めに応じ「航海遠略策」を献策しています。




 この「航海遠略策」は正に正論中の正論で、正式な藩論となりかけますが、
 久坂玄瑞以下の尊王攘夷派の血気集団は気に入りません。
 所詮、幕府のみが利益を得る体制に変わりがない、というのです。




 また師・松陰の江戸召喚や刑死も長井雅樂が関係していると考えた久坂以下の
 松陰門下の長井雅樂に対する憎しみは尋常ではありません。




 長井雅樂の暗殺を企てたり、もう一人の執政・周布政之助(スフマサノスケ)を口説き
 に口説いてついに長井を失脚・切腹に追い込んでいます。





 
1861年(文久元年)7月ついに長州藩の藩論は即今攘夷主義でまとまります。
          長州藩をけん引するのは松陰門下の久坂玄瑞らです。





1861年(文久元年)11月久坂玄瑞は有志11人で政治結社「御楯組」(ミタテグミ)を
          結成します。




 
1862年(文久2年)1月15日 坂下門外の変 老中・安藤信正が襲撃され負傷し、
            失脚します。2度の幕閣襲撃は幕府の権威を著しく
            低下させるものになりました。





※老中・安藤信正は井伊直弼の開国路線を引き継ぐとともに朝廷との関係改善
 のため公武合体策を推進していました。






1862年(文久2年)2月和宮降嫁(カズノミヤコウカ)





※公武合体策の一環として孝明天皇の異母妹の和宮が江戸に下り第14代将軍
 徳川家茂(イエモチ)に嫁ぎます。
 今でいえばロイヤルウェディングですね。





1862年(文久2年)の春から夏にかけて尊王攘夷志士と名乗る浪士が数多く集まる
ようになり、商家を脅して金品を巻き上げたりと乱暴狼藉が目立ったりしてきま
した。





朝廷は薩摩藩の島津久光に市中警護を任じます。





島津久光はこの時幕政改革案3か条を提言してこれが朝廷を通じて幕府に渡り、
結局認められています。




いわゆる文久の改革と呼ばれるものです。





(1)将軍が諸大名を率いて上洛し、国事を議する。

(2)沿海5大藩の藩主を大老に任じて国政に参加させる。

(3)一橋慶喜(ヨシノブ)を将軍後見職にする。
   松平春嶽(シュンガク)を政治総裁職に任じ、将軍の補佐に当たらせる。






1862年(文久2年)5月 幕府による貿易調査の随行員として長州藩から高杉晋作が
         上海に2ヶ月滞在して見聞を広めています。今の西洋文明には
         根本的に敵わないことを実感します。そして西洋の長所を早急に
         取り入れる必要性を感じて帰国します。





       帰国した高杉晋作が開国論者に変質したかというとそうではなく、
       以前にも増して強烈な攘夷論者に変貌しています。





       松下村塾系の思想家から革命家に変貌したと言っていいようです。



 
     

       この時点で高杉の胸中には倒幕の文字が明確に刻み込まれています。
       高杉の中ではそのための攘夷に変貌していたのです。
       彼にとってもはや攘夷は思想やスローガンといったものではなく、
       革命のための方便、手段に過ぎなくなったのです。
       開国して、西洋文明を積極的に導入し、産業を興し、貿易・通商を
       盛んにし国力をつけることで西洋列強からの侵略に対抗し得る国家
       体制を作り上げるためには今の幕府は倒さなければならない、とする
       考え方です。






1862年(文久2年)8月 京では一向に攘夷を実行しない幕府への批判から天皇の
         「攘夷親征」を期待する声が高まってきます。


          天皇自ら攘夷の指揮を執って欲しいという声です。





1862年(文久2年)9月14日 生麦事件が起きます。


       薩摩藩の行列の前を馬に乗った英国人が横断したんですね。
       日本流の処置として無礼討ちしてしまいます。
       1人死亡、2人が大怪我を負います。
       幕府はこの賠償金10万両を支払うことになります。






1862年(文久2年)9月24日 会津藩・松平容保(カタモリ)が京都守護職に就任します。





1862年(文久2年)10月12日 朝廷は破約攘夷を督促するための勅使を派遣します。





1862年(文久2年)12月12日 久坂玄瑞ら御楯組が江戸・御殿山にある英国公使館
            を焼き討ちします。
            幕府に対する揺さぶりですね。






1863年(文久3年)は尊王攘夷運動の全盛期です。その中心にいたのが久坂玄瑞
でした。玄瑞らは朝廷内に尊王攘夷派の公家を操り、朝廷をも動かす勢いでした。
まさに「長州の天下」の感がありました。




 

1863年(文久3年)1月27日 玄瑞は京・東山で諸藩のそうそうたる有志を招いて
            会合を主催しています。
            熊本藩の宮部鼎三(ミヤベテイゾウ)や土佐藩の武市瑞山
            (タケチズイサン)も出席しています。






1863年(文久3年)2月 玄瑞は同藩の寺島忠三郎と熊本藩の轟武兵衛(トドロキブヘエ)
          を引き連れ、関白・鷹司輔熈(タカツカサスケヒロ)を訪れ、建言書
          を提出しています。






          その中で、攘夷期日の決定、言路洞開(げんろとうかい)を
          訴え、もし聴許がなければ300余人の同志が一斉に決起する
          と脅しています。






          玄瑞、朝廷に対し上から目線ですね。






          あわてた朝廷は将軍・家茂に緊急上洛を命じます。
          玄瑞が将軍を引っ張り出したんですね。






※言路洞開 上位の者が下位の者の意見に耳を傾けることをいいます。 
      ここでは朝廷への建言の許可を意味します。






1863年(文久3年)3月 上洛した家茂は「5月10日をもって攘夷を実行する」旨の
          奉答書を苦し紛れに提出します。各藩にもこれは通達される
          ことになります。



         
          幕府の命令で攘夷を決行する大義名分を得た久坂らは急ぎ
          長州へ戻り戦の準備にかかります。





1863年(文久3年)5月10日 長州藩は外国船舶に攻撃を行います。

            下関事件です。






1863年(文久3年)8月15日~17日 薩英戦争







※下関事件 5月10日関門海峡において長州藩は、アメリカ商船を皮切りに23日に
      フランス艦船、26日にオランダ艦船を次々に砲撃。





      不意打ちによる緒戦は確かに戦果を上げましたが、米仏艦船による
      用意周到な報復攻撃を受け長州海軍は全滅し、早くも制海権を失います。





      また,陸戦隊が上陸して砲台は占拠され破壊されました。近隣の村落も
      焼き払われ屈辱的完敗を喫しました。





      また、この戦いを通じて普段威張り腐っていた藩士(正規兵)が全くもって
      実戦の役に立たないことが判明します。
      高杉晋作は農民・町民・下級武士からなる「奇兵隊」を創設していきます。


     


      ちなみに、バカ正直に攘夷決行したのは長州藩だけでした。
      

     





※薩英戦争 生麦事件で英国は薩摩藩に対し、犯人の逮捕と処罰、および遺族
      に対して25000ポンドの妻子養育料を要求。





      薩摩藩はこれを拒否。





      8月15日、16日の戦闘において、薩摩側は甚大な被害を被りつつも
      薩摩藩砲台の意外な善戦で当時世界最強の英国艦隊の旗艦ユーライ
      アラスに多大の損害を与えた。


      英国は事実上の勝利をあきらめ、17日、横浜に向い、薩摩から撤退
      しました。


      世界の有力新聞がこの模様を報道。
      「日本 あなどるなかれ」と伝えられたそうです。


      これは日本にとって大きな収穫だったんじゃないかと思います。


      中国や他のアジア諸国とはちょっと違うよ・・・という印象を与えた
      ことでしょう。


      11月15日幕府と佐土原藩の仲介により英国と講和します。
      薩摩は幕府から2万300両を借用して支払います。
      ただしこれを幕府に返済することはありませんでした。



      講和条件の一つである生麦事件の加害者は「逃亡中」として処罰されず
      じまいでした。


      
      この戦争はそもそもは攘夷の為のものではなかったのです。



      英国による損害賠償請求が発端の英国側から仕掛けてきた報復戦争でした。



      薩摩藩はこれを受けて戦い、英国艦隊を結果的には退けたことになります。
      この戦争を契機に薩摩は英国との友好関係を深めていきます。

     


1863年(文久3年)8月18日の政変  文久2年から3年にかけては京における長州藩の勢いは
     
      他を圧倒していました。宮廷内で過激攘夷の公家を掌握し、彼等を通じて
      天皇を動かしていました。



      久坂玄瑞を中心とする松下村塾門下たちによって公家を操り、「勅諚
     (ちょくじょう)」を乱発し、この勅諚の権威で幕府や薩摩、会津その他
      の雄藩を抑え込んでいました。




まさに「長州の天下」の感があったのです。




      しかし、この長州を密かに敵視していた勢力がありました。




      薩摩藩です。




      薩摩藩のこの時点での藩論は「尊王攘夷」&「公武合体」です。
      「尊王攘夷」という点では長州藩と同じです。
      長州藩にしてみれば薩摩藩も同志のような感覚でみていたことでしょう。

 
      ところが薩摩藩は長州藩に対して強い不信感と嫉妬心を抱いていたのです。



      「長州人の尊王攘夷は現幕府を倒して長州幕府を創るための隠れ蓑ではない
      だろうか?その道具として尊王攘夷を使っているにすぎないのでは?」




      尊王攘夷運動の全盛期を牽引する長州藩に鋭い嫉妬心と競争心を持っていました。
      長州に先を越されている、との不快感も強かったのです。




      怨念とも思えるこの思いが佐幕派の代表格ともいえる会津藩との結託を生みます。
      何としても長州藩を出し抜きたかったのですね。




      薩摩藩と会津藩が密約のもと、宮廷工作をしたところ、意外なことに孝明天皇が
      長州藩の暴走的な行動にきわめて強い不快感を抱いていることがわかり、
      むしろ薩摩藩や会津藩の穏健さを好ましく思っていることがわかったのでした。




      そこで薩摩藩と会津藩は天皇を密かに自分たちの陣営に引き込む秘密工作を
      行った後、8月18日早暁、にわかに全ての宮門を薩摩・会津の武装兵で固め、
      「勅諚である!」として長州系の過激攘夷公家と長州藩士の入門を禁じ、さらに
      長州藩そのものを京の都から追い落としてしまうという大クーデターを
      やってのけます。




      これが世に言う「八月十八日の政変」です。



 
      一夜にして長州藩は政権の舞台・京から出て行かなければならなくなりました。
      なにしろ「勅諚」には逆らえません。




      口惜しさを噛み締めながら一旦長州に戻ります。
      この時、長州藩とともに動いていた公家7人も長州へ同行します。



    
      これが世に言う「七卿落ち」です。




      このクーデターを裏で操ったのが薩摩藩だとわかり、以後、長州藩は薩摩藩を
      仇敵のごとく憎み始めます。




      京に残留した桂小五郎がさかんに雪冤工作(せつえんこうさく)を試みますが
      事態は一向に好転しません。



      完璧なクーデターでした。 


    

     ※雪冤工作 無実の罪を明らかにして身の潔白を明らかにすること。





      長州藩は尊王攘夷運動の主導者の位置からまっさかさまに蹴落とされてしまった
      わけです。

     





      この後、長州藩では自重論と直ぐにも京へ進撃して再度の雪冤工作を行おうとする
      意見の対立が生じます。




      
      雪冤工作が功を奏しない場合は薩摩藩と会津藩との戦をも辞さない構えの
      進撃を企図します。



      
      京にいる桂小五郎からの上申もあり、周布政之助や久坂玄瑞の必死の自重論で
      一旦は無期延期に決定しましたが、一人どうしても言う事をきかない男がいました。
      来島又兵衛(キジママタベエ)その人でした。




      来島又兵衛は正規兵に頼らない武闘集団を組織します。
      鉄砲撃ちの猟師の狙撃隊。
      諸国から流れ込んで入る浪士を中核にした遊撃軍。
      神主(かんぬし)から成る神祇隊(じんぎたい)。
      僧侶たちから成る金剛隊。
      力士たちから成る力士隊。
      百姓たちから成る郷勇隊。
      町人たちから成る市勇隊。

      来島又兵衛はこれら約600名を組織して出発準備を整えていきます。




      藩庁の命を受け、高杉晋作が来島又兵衛の自重を促すべく3日間に渡り説得
      しますが聞く耳を持ちません。




      この時、高杉晋作は藩の政務役(執政)という重職にありましたが、来島又兵衛との
      対談に腹を立て自ら再び脱藩し単身京へ上ります。




      京滞在中、高杉晋作はなんと藩主直々の手紙を受け取っています。
      「急ぎ、帰国しなさい」という内容です。
      脱藩はなかったことにしてあげようとする藩主の思いやりでした。




      晋作は涙を流しながらこれには従えない旨を伝達役の上使に伝えます。
      晋作は土佐の浪士・中岡慎太郎とともに薩摩藩主代理の島津久光暗殺計画を
      画策していました。



      
      死を決して島津久光暗殺の機会を窺いましたが、ついにその機会に恵まれず、
      晋作は帰藩することになります。




      帰藩早々、晋作は「脱藩の罪により、入牢(じゅろう)を申し付ける」という
      意外な藩命を受け、野山獄に収監されてしまいます。





      これは京進撃を目論む過激派集団の企み(たくらみ)でした。
      うるさい晋作がいては邪魔だ・・・牢にでも入れておけ・・・というところでしょう。



      
      久坂玄瑞ら松陰門下のあの過激さを凌駕(りょうが)する勢いの過激派行動集団を
      なだめ、自重させようと久坂らは必死になります。



      長州藩に追い落としをかけた薩摩・会津憎しの藩感情と朝廷に何とか陳情しよう
      という切ない藩感情が入り乱れて藩を上げての超ヒステリー集団が出来上がって
      いました。




      久坂玄瑞、周布政之助らが必死に抑えにかかります。
      しかしあるきっかけが起こります。




      池田屋事件です。






1864年(元治元年)6月5日 池田屋事件

      京都三条木屋町の旅館・池田屋で会合中の長州藩・土佐藩・熊本藩らの尊王攘夷派
      の志士たちを新撰組が急襲した事件。





      これまで数多くのTVや映画等でさんざん放映されたり、時代小説とかでもたくさん
      描かれていて知らない人はほとんどいらっしゃらないんじゃないかな、と思います。




      前年の八月十八日の政変により長州藩は京から追い出され、朝廷では公武合体派が
      主流となりました。




      野に下った形の尊王攘夷派の志士たちは勢力挽回を図るため、祇園祭の前の風の
      強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、
      一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」という
      計画を練っていました。





      この計画を実行するかどうかを協議する会合が開かれるという確実な情報を手に入れた
      新撰組が入手して池田屋を急襲するという事件でした。





      この夜の切り合いで熊本藩の宮部鼎三(ミヤベテイゾウ)や長州藩の吉田稔麿(トシマロ)ら
      有力な志士の多くが死亡しました。
      長州藩士だけでも10名以上が討死・刑死しています。





      宮部鼎三は吉田松陰の親友でした。
      吉田稔麿は松陰門下の人間でした。





      その翌日も攘夷志士掃討作戦が実施され20余名が捕縛されました。
      この市中掃討でその任に当たった会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の即死者
      を出した、といいます。




      凄まじいばかりの激闘だったんですね。即死ですよ。




      以前、ある本で読んだのですが、刀によって傷ついても簡単に直ぐ死亡することは
      極めて稀だそうです。死ぬまでには少し時間がかかるのが普通だそうです。
      即死者がこんなに出る切り合いは尋常でないことが容易に想像できます。



      

      この池田屋事件は長州過激派をさらに刺激してしまいます。
      いえ、これら過激派行動集団を抑えようと努力していた久坂玄瑞らをも激怒させて
      しまいます。



      

      長州藩の各港から軍船が船団を組んで次々に出港していきます。
総勢2000名を超す大部隊でした。
      藩を上げての陳情部隊であったわけですね。





      この時、高杉晋作は自宅監禁、周布政之助も逼塞を命じられて何もできない状況
      でした。





1864年(元治元年)7月19日 禁門の変(蛤御門の変)ハマグリゴモンノヘン



      6月下旬、長州軍は京での3ヵ所の布陣を終わり、それから20日以上もの時間をかけ、
      上洛の理由の説明と長州藩としての真意について陳情活動を行っています。



      
      この20日間は防衛する幕府側にとって大変都合のよいものになりました。




      長州軍の駐屯する3ヵ所だけでなくその周辺を数多くの諸藩で防衛線を築きます。
      また御所の防備も油断なく済ませています。





      どう考えても御所まで行き着くのは困難な状況です。




      しかし思想に殉じる発狂の虜(とりこ)になっている長州軍は狂ったように
      突撃していきます。



      
      各所で長州軍は討ち取られていきますが、来島又兵衛率いる約800名の部隊が
      御所にたどり着きます。




来島部隊は公卿門(くぎょうもん)の会津・桑名・一橋の防衛部隊を蹴散らし、蛤御門に突入します。
      門扉を叩き破って乱入するや急射撃を行うと抜刀突撃に移ります。




      日本最強と言われていた会津の藩兵までが逃げ出し始めた頃、薩摩の部隊が御所に到着。




      小銃と砲3門で銃撃し、砲撃を開始すると会津・一橋の部隊が勢いを盛り返し、来島部隊を挟み撃ち
      する形勢になりました。




      この状況下で来島部隊は小一時間近くも奮闘しています。




      この時の薩摩部隊の将は西郷吉之助(キチノスケ)つまり西郷隆盛。
      西郷の指示で来島又兵衛が狙撃され落馬し、自刃して果てると長州の潰走が始まりました。





      久坂玄瑞は兵600を率いてやっとの思いで戦場にたどり着いた時には来島が既に戦死した後
      でした。




      玄瑞はこの惨状の中でなお陳情しようと鷹司(タカツカサ)邸に乗り込み、長州の真意を述べようと
      試みたが拒絶されます。




      この時すでに鷹司邸は諸藩の兵が取り囲み、攻撃を始めています。




      玄瑞率いる小部隊ではどうにもならず、乱戦の末、長州人の大半がこの屋敷の内外で戦死。
      残りの兵に玄瑞は退却を命じます。




      玄瑞は残り、松下村塾での同門の寺島忠三郎とともに腹を切って死にます。
      享年25歳。
      松下村塾きっての英才の若すぎる死でした。




      兄・玄機(ゲンキ)の影響を受け、救民救国の志をもって、松下村塾に学び、師の提唱した
      草莽崛起論(そうもうくっきろん)を行動のもとに実現し、長州藩を尊王攘夷のリーダーに
      押し上げた若き英才の痛恨きわまりない死でした。




      切腹前、やはり松下村塾同門の入江九一が共に腹を切ろうとするや玄瑞はそれを押し止め、
      帰国して今日のことを藩主に報告するよう頼んで逃がそうとしました。




      脱出を試みた入江九一ですが燃え盛る鷹司邸の穴門から出たところを待ち伏せていた越前・
      福井藩の兵の槍(やり)で顔を思い切り突かれてしまいます。




      この衝撃で両眼球が飛び出し、脳漿(のうしょう)が後頭部を流れ、みるも無残な死体と
      なりました。
      戦闘の激しさを物語る象徴的なシーンです。




      この戦闘で松陰の門弟の多くが死んでいます。





      またこの暴挙で長州藩は正式に朝廷から「逆賊」の汚名を着せられることになります。

      ですが長州においては尊王攘夷熱は冷めることなく噴火し続けます。

      この後、砲台を修復し、あろうことか再び関門海峡を封鎖します。

      そして米・英・仏・蘭の四か国連合艦隊との戦い。
      さらには第一次長州征伐と藩未曾有の危機が押し寄せるのです。





1864年(元治元年)8月5日~7日 英・仏・米・蘭の四か国連合艦隊による第2次報復攻撃
               が行なわれます。

               いわゆる下関戦争または馬関戦争と呼びます。

               この時、連合軍は軍艦17隻を揃えて攻撃に来ました。





前年の外国勢力による報復攻撃の後、長州藩が砲台を修復し再び海峡封鎖を
      実行した為めでした。





      関門海峡(馬関海峡)の海上封鎖により特に英国の経済損失が大きく、その
      報復措置で行われた戦争でした。


       秘密裡に英国に留学していた長州藩士伊藤俊輔と井上聞多は四国連合による
      下関攻撃が近いことを新聞で知り、戦争を止めさせるべく急ぎ帰国の途につ
      きます。





      イギリスの国力と機械技術が日本より遙かに優れている事を現地で知った
      二人は戦争をしても絶対に勝てないことを実感していました。





      伊藤と井上は三カ月かかって6月10日に横浜に到着。
      英国公使オールコックに面会して藩主を説得することを約束します。




 
      オールコックはこれを承諾し、二人を軍艦に乗せて、豊後国まで送り、
      長州へ帰させた。





      二人は藩庁に入り藩主毛利敬親と藩首脳部に止戦を説いたが、長州藩では依然
      として強硬論が中心であり、徒労に終わってしまいます。





      下関砲撃が行われ、前田および壇ノ浦の諸砲台を攻撃し、前田浜に陸戦隊を
上陸させ砲台を占拠、これを破壊しました。




      
      1863年の戦闘を下関事件、1864年の戦闘を四国艦隊下関砲撃事件または
      馬関戦争もしくは下関戦争と呼んだりもします。





      1864年8月18日講和成立





      下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、
      悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いの
      5条件を受け入れて講和が成立しました。





      ただし、賠償金については長州藩ではなく幕府に請求することになります。
      巨額すぎて長州藩では支払い不能ということもありますが、今回の外国船への
      攻撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した命令に従ったまでという名目で切り抜け
      ます。





      講和の全権使節は高杉晋作でした。






      講和の談判の中で彦島の租借を強引に申し入れてきたのに対し、これを高杉は
      断固として拒否し、彦島が香港のような外国の領土になるのを防いだという逸話が
      残っています






      高杉晋作でしかできない交渉でしたでしょう。





      2度の敗戦を経験し、外国武力の威力を肌身で知った長州藩は「攘夷」というものが
      現実的に困難であることを初めて実感します。
      以後、英国に接近して「倒幕路線」へと180度舵を切り替えていくことになります。


      





1864年(元治元年)11月~12月 第一次長州征伐





      馬関戦争の講和成立の少し前から朝廷と幕府の間で長州征伐計画が完成に向かって
      いました。
      11月11日を期して配備完了。18日に攻撃開始を予定していました。




      長州征伐がある、という情報が流れるや長州藩の政局が一転するのです。




      ここ3年程の間は長州内での政権は尊王攘夷派の正義党が握っていました。
      政務役・周布政之助をトップに置き松陰の門人たちがその子分のように存在して
      いました。久坂玄瑞しかり、高杉晋作しかり、桂小五郎しかりです。
      もちろん、正義党に属する多くの官僚たちがいました。




      対立する俗論派は椋梨藤太(ムクナシトウタ)を代表格にいわば野党の立場にいました。




      攘夷実行の下関事件で屈辱的完敗(1863年5月)
      八月十八日の政変(1863年8月)
      禁門の変(1864年7月)
      馬関戦争(1864年8月)




      この1年3か月という短い期間に長州攘夷派は手ひどい目に会っているのですが、
      長州征伐の情報が流れるや「それみたことか」と騒ぎ出したのが佐幕派の
      椋梨藤太率いる俗論党です。




      息を吹き返した俗論党は正義党の官僚の多くを逮捕・投獄・刑死に処していきます。
      政務役・周布政之助はそれに先立ち1864年9月25日に割腹自殺しています。
      高杉晋作は九州へ難を逃れます。



      
      長州征伐にあたり薩摩の西郷隆盛は政略的意図から攻撃開始に反対します。
      西郷は長州の俗論党に正義党を弾圧させ、幕府に完全恭順するよう画策します。
      俗論党主導となった藩政府は禁門の変の首謀者とされる3家老を切腹させ、
      4任の参謀を斬首刑に処しました。




      藩主父子が萩場外に蟄居させられ、山口城は破却されました。
      また長州藩が保護していた公家たちの福岡移転も了解されると征伐軍総督の
      前尾張藩主・徳川慶勝(ヨシカツ)は配備した諸国の藩に対し、幕府首脳との相談なしに
      兵の解散を行ってしまいます。



  
      長州藩は一戦もすることなく薩摩・西郷隆盛の思惑通りに動かされていくかに
      見えました。
      長州の尊王攘夷の火が消えかかったかに見えた時、わずか80人の奇兵隊の隊士
      を率いて佐幕派になりかけた長州藩政府を覆し、再び長州に攘夷の火を燃え上
      がらせたのは九州亡命から引き返してきた高杉晋作でした。    

      


この後、政局は高杉晋作による功山寺挙兵、保守派政権打倒→第2次幕長戦争→戊辰戦争
へと動き始めます。
言うなれば幕末終盤に向かって西から東への大攻勢が始まります。




とにかく久坂玄瑞が活躍し、そして散っていったこの短い期間のあまりの事件の多さに
こんがらがってしまわないようにと思い、解りやすくを念頭に、かつ、簡明にを心掛けて
みましたが如何だったでしょうか?
今後も更に見返しまして加筆訂正していきますが、お気づきの点等ありましたらお知らせ
ください。





長い文章になりました。
ご精読ありがとうございました。


なお、久坂玄瑞および高杉晋作についての詳細は
別項または別ブログで記していきたいと思います。

      



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