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《吉田松陰3大事件/江戸召喚》 [吉田松陰3大事件]

《吉田松陰3大事件/江戸召喚》





ペリーのアメリカ艦船での海外渡航の夢が失敗に終わり、江戸から長州へ送られた
松陰は野山獄に収監された後、杉家での禁錮生活に入ります。





長州藩というのは幕府によって罰せられたものに対して寛容です。
勿論表立ったものではありませんが、そういう気質を秘めていたようです。

これが他藩であったら切腹ものかもしれません。
国禁という大罪を犯した松陰に厳しさを示す重臣などいなかったのです。





大人に対してその威厳性や恐ろしさを知らずに育った高杉晋作などはこの様子を見て、
ますます幕府を軽視する感情を持ったかも知れません。





さて松陰。





杉家のうちで塾を開きます。
最初の生徒は父・百合之助と兄・民治でした。

塾の噂が広まり、身分を問わず学問への志ある若い人々が集まり始めます。
その中には久坂玄瑞がおり、また高杉晋作なども入ってきます。

誰も彼もが松陰の人柄と学識に魅了され、熱心に通うようになり、物置小屋を 改修して講義室を作るに至ります。

日本と世界はどうなっているのか?
で、我々は何をどうすべきなのか?

日夜議論を闘わせ、切磋琢磨する場所ができたのです。
いわゆる私たちの知るところの松下村塾です。





その詳細はこちらをご参照ください。






さて松陰が松下村塾にて師弟合い切磋琢磨しているこの時期、幕府は威信を失い、
それまでタブーであった幕政批判が日本のあちこちで猛然と湧き起りつつありました。





ペリーによる威嚇外交(いかくがいこう)に狼狽した幕府を見て武士だけでなく民衆の多く
が一瞬にして知ってしまったのです。幕府の力のなさを。





「幕府とは、たかがそれだけのものか」

「幕府などあてにはできぬ」

「これから日本は一体どうなっていくんだ」





素朴な感情として対外敵対心幕府に対する侮辱心理が渦を巻いて世の中を席巻
します。





また、実際、江戸城を神殿かのごとく畏れてかしこまっていた諸侯が堂々と出入りし、
幕政批判を公然と行うようになりました。





その代表的人物としては水戸の徳川斉昭(ナリアキ)、外様大名として幕閣に意見するなど
あり得なかった薩摩の島津斉彬(ナリアキラ)、土佐の山内容堂(ヨウドウ)、越前福井の松平春嶽
(シュンガク)、伊予宇和島の伊達宗城(ムネナリ)などです。





また、これまで外様大名同様に幕府に対して何の発言権もなかった京の朝廷の公家たちが 居丈高になって幕府の弱腰外交を痛烈に批判しだしたのです。
もとより彼ら公家に攘夷論を吹き込む攘夷論者らに扇動された結果ですが、当時の
孝明天皇が大の異国人嫌いであったことが火に油を注ぐことにもなりました。





「弱腰にも程がある。敵の武力に屈して日米通商条約などを勝手に結ぶとは言語道断
である。なぜアメリカと一戦する覚悟でそれを一蹴しなかったのか」




最初、単純な攘夷論だったのですがその加熱ぶりに合わせて尊王主義という考え方が 一つの選択肢として浮上してきました。

政権を天皇が握るべきだ、というものですね。




しだいに幕府もこれら過激志士たちの動きを無視できなくなってきます。





幕府は老中・間部詮勝(マナベアキカツ)を京へ派遣し、公家を金銭で買収する一方、
公家に取りついている扇動家らを一掃しようと試みましたが、はかばかしくありません。




1858年(安政5年)4月彦根藩主・井伊直弼(ナオスケ)が独裁権力を持つ大老という幕府
最高位に就任するやこれら不平分子の一掃に乗り出します。





いわゆる「安政の大獄」です。





弾圧の対象は江戸で幕政批判を行った何人かの大名、京で志士たちに踊らされた
親王や公家、それと京を中心に幕府批判を行い続けた危険思想家とその運動家たち
でした。





松陰はこれらの連中の末端位に位置する存在でした。





しかし安政に大獄による探索の手は江戸から遠く離れた長州の一書生にまで
届いていたのです。





「松陰を江戸へ送れ」という幕命が長州藩に下ります。






話は多少前後しますが、この時期、松陰はその思考を変化させています。






数年前までは幕府を奮い立たせて列強に当たらせたい、と考えていました。
しかし幕府の対ペリー外交を見て絶望しました。

次いで長州藩そのものを革命勢力に変えてその武力に期待しようと試みましたが
全くこれは相手にもされず、再び絶望します。

ここに至って尊王攘夷を実現すべく革命的市民の一大結集を大真面目に考え始め ます。

これがやがて後の高杉晋作による奇兵隊創設につながっていくんだと思います。






現行の幕政に痛撃を与えるため、松陰はとんでもない事を考え、かつ藩庁に嘆願書を
送りつけます。





「老中・間部詮勝を殺そう」というのです。





井伊直弼の使い走りである間部詮勝は京において、公家をして「日米修好通商条約」賛成派
たらしめようとして公家工作をしていました。






間部を阻止するには殺すしか他に手はない、と松陰は主張します。





またそれの実行のために武器弾薬の準備をも願い出ています。





幽囚の身でこのような嘆願を行なっているんですね。 





もとより松陰に対して藩の当局者はかねてより好意的でありました。
しかしさすがにこの嘆願には驚きあわてます。





藩庁は議論で松陰を説き伏せる自信はありません。
やむなく松陰の身柄を野山獄に移します。
松陰の自由を奪うことによって、その暴発を防ぐ考えでしたが、それ以外に
松陰の身を守る術がないとも考えたのでした。





万が一この嘆願の内容が外部に漏れでもしたら松陰の命は幾つあっても
たりません。





ここでも長州藩の温情気質が垣間見えますね。





この秘密は幕府の探索者には掴まれていませんでした。





幕府は別の理由で松陰を尋問すべく江戸へ送るよう長州藩に命令したのでした。





その理由とは志士活動を大掛かりに行っていた梅田雲浜(ウンビン)の罪を追及
するため松陰を参考人として江戸へ送るよう申し付けてきたのでした。

それともう一つ理由がありました。

京の御所の庭に落し文があり、これが松陰のものだという疑いです。
その申し開きをせよ、ということでした。

もとより松陰は京の御所に入ったこともなく、梅田雲浜の件についても相手が勝手に
訪ねてきただけのことで全く問題のないところです。






ですがこの時の執政である村田清風派の周布政之助(スフマサノスケ)は心配します。





身に覚えのない事柄に関する尋問であるから普通なら心配はないところだが、
松陰はああいう純な男だから何を言い出すやらわからない・・・と心配し出す
のです。





その心配は正に的中していました。





松陰は自分が刑死する可能性が高いと考えていました。
なにせ密航を企てた過去がありますし。
松下村塾では尊王攘夷を熱く語っていますし。
間部詮勝(マナベアキカツ)を殺す計画なども提案したことですし。





そこで天下のお白洲の場で救国の方策についての所信を述べ、尋問する幕府役人の
考え方を変えさせ、もって幕府の方針をも変えさせてみよう、と考えていました。
その為のまたとないチャンスだと考えるんです。
もとより死を覚悟の上です。





「きっとわかってくれる」という気分がいつの時でも松陰という人にはあったんです。





しかしここまで来るとその魅力的な楽天性や素直に人を信じる性格も現実的には
度を越して滑稽でさえあります。

いや滑稽さも悲痛さも超えています。





大望の為には命を捨ててかかることも必要でしょうが、また大望の為にも命を大切に
することも必要なんじゃないかと私なんかは思うのですが、皆さんの意見はどうで
しょうか?
必要な尋問だけに答えてくれば無事に長州に帰れたと思うのですが。





さて評定所のお白洲。





松陰の視線の上に裃(かみしも)を付けたそうそうたる取調官が居並んでいます。
吟味役が尋問を行っていきます。





梅田雲浜(ウンビン)の件も落し文の件もほぼ疑いが晴れます。





しかしこの吟味役、松陰に対して優しい語調で誘導尋問を仕掛けます。





「そのほう、多年、日本国を憂えて辛苦したと聞く。そのことは吟味の筋ではないが
、ここで聞かせてくれぬか」





松陰この時この取調官らをにわかに信じてしまいます。





今こそ・・・と思ったことでしょう。





松陰は日本国がいかに危ういかを説き、今後どうすればよいかを説いた上で、
あろうことか奉行以下が呆然となるほどの正直さで松陰がやったり、企てたり
したことの一切合切を語ります。
間部詮勝(マナベアキカツ襲撃計画のことまでです。





訊かれもしない自分の罪状まで大いに述べてしまったわけです。





いつもここでつい思ってしまいます。「あー、余計な事を、またー」




でもこれが松陰なんです。

玉木文之進から公人としての教育を受け、自らも決して人を疑わぬと自己教育
してきた松陰の性格なんですね。

純粋と言えばこれほど純粋な人格はないでしょう。

それゆえ時が経ち、時代が変わろうとも松陰を敬愛する人が後を絶たないの
だと思います。





吟味は7月9日、9月5日、10月5日,10月16日の計4回行われました。





そしてついに10月27日朝、死罪を宣告され直ぐに実行されました。





その最後は堂々として大変立派だったと伝わっています。





松下村塾での松陰と愛弟子たちとの交流や死罪前の獄中での松陰の心境やらは
別項でお話したいと思います。




付けたしの形になりますが・・・
江戸・長州藩邸から評定所に向かう松陰護送には騎馬武者一騎、士分が三名、
足軽中間が三十人という仰々しい隊列をもって行いました。

松陰が長州藩にとって大切な人材であることを幕府にアピールするためでした。
それによって松陰に対する判決が少しでも軽くなってほしい、という期待をかけた
ものでした。

ここに長州藩の松陰に対する優しさがはっきりと見えます。
感動の一場面だと思います。




長文のご精読ありがとうございました。
























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