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《吉田松陰3大事件/密航失敗事件》 [吉田松陰3大事件]

《吉田松陰3大事件/密航事件》






吉田松陰は脱藩の罪で国元に返され、とりあえず「親類あずけ」と
なります。





杉家に戻った松陰を家族の者は誰一人として不快な顔をしたり、叱
ったりはしません。
こういう思いやりと明るさが杉家の特徴だったんです。





松陰は杉家の三畳の仏間を蟄居(ちっきょ)部屋としてあてがわれ
ます。




松陰は藩からの沙汰を待ちますがすぐには判決が下りてきません。
村田清風が藩政を握っている時期なら寛大な処置が期待できるので
すが、この時は敵対派閥の坪井派が政権を握っている時期でした。





やがて判決が下ります。





士籍はく奪・家禄没収・召し放ち





つまりは追放罪です。





しかし判決文の最後の条項に「実父杉百合之助ノ育(はぐくみ)と
する」とあり、この一項で完全な浪人となる最悪な事態は免れてい
ます。





育(はぐくみ)とは長州藩独特の制度で、いわば公式の居候、公式の
被保護者というニュアンスの言葉で、これによって松陰は他藩の者に
「自分は長州藩士です」と語ってもうそにはならない、というような
宙ぶらりんな身分ということです。





この一項に長州藩独特の温情主義が見られると思います。





さらにこの上に藩主からの救済の手が差し伸べられます。
松陰の才を惜しむ藩主が「向こう10年、諸国修行」を許可します。





1853年(嘉永6年)1月26日 10年の遊歴に出るべく松陰は萩城下を
旅立ちます。



奇しくもこれより5ヶ月後ペリーが来航し開国を強要する大事件が勃発
するのです。
なんとタイムリーなんでしょうか。
松陰はその歴史的事件に遭遇すべく畿内遊学を経て江戸に向かって歩き
ます。





江戸では佐久間象山の塾に再入門することがさしあたっての目的でした。





1853年5月、江戸に入ると友人である桶町河岸の鳥山新三郎と再会を喜び合います。





この後松陰は佐久間象山を訪ねる前に母・滝の兄である竹院(チクイン)を鎌倉に
訪ねています。瑞泉寺の第二十五世の住職でした。




この時松陰は竹院に重大な心のうちを半ば吐露しています。





家学である山鹿流軍学ではとうてい列強先進国の武力には対抗できない。 洋学を修め、敵の文明を知り、敵の武器・戦法を知り、その上で敵に備え、 敵を撃たねば、日本は必ずや洋夷の侵略するところとなる。





知識として知った中国、アジア諸国の惨状が頭から離れません。





ここ数年、日本中を歩き回って海岸を見、山岳を見、国防のことを考え続けた。
日本中のこれという人物にはあらかた会い、目の前の国防問題について意見を
求めたがついに回答を得ない。





佐久間象山は日本一の洋学者だが所詮鎖国の日本の中で暮らす日本人であり、
針の穴から天を覗くようなもので、古ぼけた数冊の蘭書に頼っているだけに
すぎない。





この上は、国禁を破って外国へ渡る以外に方法はないのではないか・・・と。
日頃、口に出せず思い悩むところの一旦を吐露しているのです。





先頃行ってしまった友との約束ゆえの脱藩とは比べものにならない大罪です。





1853年6月3日松陰は佐久間象山を訪ねています。
じつはこの日の午後2時ペリー艦隊は浦賀に到着しています。





この事実を松陰が知ったのは6月4日。
急いで浦賀に向い、翌5日の夜も10時過ぎ。
翌早朝、松陰はその目で初めて異国の軍艦を見ます。
その威容に目は釘付けになり、黒船の空砲射撃の轟音に膝頭がワナワナと震えます。






ペリーは日本との通商を申し込むにあたり、返答によっては武力制圧もあること
を意図的に暗示しました。






この脅し(おどし)をもっての久里浜談判はその屈辱性と相まって日本人の対外敵対心
を一気に日本の津々浦々にまで引き起こすことになり、以後15年間にわたる幕末の
騒乱を引き起こすきっかけになりました。






ペリーは返答をもらう為翌年に再び来航する旨を告げて6月12日に一旦去っていきます。






日を置かず松陰は「将及私言」(しょうきゅうしげん)という意見書を藩主当てに提出し、
これが受け入れられ、藩主毛利敬親(タカチカ)の元にまで届いています。





追放された状態の藩士が事もあろうに藩主に対し意見書を贈るなど考えられない事態で
、死を命ぜられてもおかしくない大変な僭越行為でした。





黒船騒ぎでごった返している時に、間近で観察してきた松陰の意見書は無視することの
できないものだったのでしょう。






「将及私言」で松陰は5、6か月のうちに日本の存亡を賭けた戦いが起こる可能性や、
藩組織の一変の必要性、藩主独裁体制確立の必要性、西洋式鉄砲と西洋式軍艦の購入
や西洋式騎兵と西洋式歩兵を至急組織することの必要性を勧めています。
また国内で革命が起きる可能性を示し、それに対する準備の必要性まで説いています。






九州遊学や東北遊学の頃の松陰は海戦において現状日本に全く分がない。
しかし内陸戦に持ち込めば日本に勝機が生まれる、と考えていました。






しかし、黒船に接し、かの軍隊組織を見た後はとてものこと内陸戦といえども勝機なし、
との結論を自覚します。






抜刀して切り込んでもたちまち西洋式銃砲で蹴散らされてしまう結果しか待っていない。





どうしたらいいのか・・・松陰はひたすら悩み、考え続けます。






この時、松代藩から情報が入ります。





ロシアの艦隊が四隻、ペリー同様の要求をかかげて長崎港に入ったという。





松陰、まさにとっさに決意します。「ロシアへ行こう」

ロシアへ密航し、西欧の文明社会を自分の目で見て来よう。





早速、長崎へ急行します。1853年9月のことでした。





1ヶ月余りかかって九州・熊本までたどり着きますが、松陰は先を急がず親友の
宮部鼎三(テイゾウ)を訪ねロシア密航の件を打ち明けました。




宮部いわく「はたして成功するかどうかはなはだ疑わしい」

松陰答えていわく「成るか成らぬかは天の仕事である。私としてはやってみるだけの
           ことだ」

これが松陰の基本的精神であり、行動力の人そのものです。

「行動なき学問は学問にあらず」という陽明学をまさに地で行(い)っています。






27日になってようやく長崎に入ります。
しかしどこにもロシアの艦隊は見当たりません。
ヨーロッパでクリミア戦争が始まろうとしており、時の海軍中将プチャーチンは
急遽本国へ帰ってしまったのでした。
松陰が長崎に入る3日前のことでした。





だいたい、こういう齟齬(そご)が松陰には多いのですが、それは責められない
ことでしょう。
現代のようにインターネットもない時代です。
とりああえず動いてみるしか仕方のない時代です。





気持ちを入れ替え、松陰は江戸へ戻ります。
いつものように鳥山新三郎の宅に入ります。





ここで松陰は新三郎から金子重之助(シゲノスケ)という青年を紹介されます。





長州出身ですが百姓出身の者で、学問したさに江戸に出るため脱藩してきた人です。
松陰がロシア密航を企て、長崎に向かったと知るや、すぐさま地を蹴って後を追った
という。
まるで松陰そっくりの行動力の持ち主です。
この金子重之助、松陰に心酔し、松陰の最初の弟子となります。





後のことですが、アメリカ密航失敗で松陰とともに縛に就き、国元へ返され、
松陰とは別の獄舎に入れられ獄死しています。病死でした。大変な苦しみよう
だったと伝わっています。




さてやっと本題。





年が明けて1854年1月14日。ついにペリー艦隊が江戸湾に進入してきました。
この時、7隻でやって来ました。




松陰この時24歳。





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http://ameblo.jp/hakkouichiu/entry-10043645004.htm...


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http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-...





ぺりーの開国要求に対してどう対応するべきか、幕府要人はもとより日本中が緊張
します。





「断固、屈するなかれ」という攘夷論が巷(ちまた)で沸騰します。





幕府はペリーの強圧外交に屈します。
横浜において2度の会談で日米和親条約を締結します。

日米和親条約についてはこちらをご参照ください。





日本中に落胆と怒りが蔓延します。





さて松陰。

すでに密航の決行を決意しています。





江戸出発の日は3月5日と決め、その前日に伊勢本という酒楼で友人らを招き密航の
決行を表明しています。

賛否両論飛び交うなか、一同賛成に落ち着きます。





なぜ秘事をわざわざ友人らに漏らしたのか?





松陰は現世での立身などまるで望みはしませんでしたが、死後での功名には執着して
いたのです。

長州の勤王の第一声は自分である、という名誉は正に自分にある、ということを世に
残しておきたかったようです。

もっとも、後年、松陰はこれを恥じ、反省していますが。






松陰と金子重之助は黒船を追って下田まで急ぎます。


簡単に書いてますが江戸から横浜、そして静岡県の下田まで歩いたら遠いですよ。
車で何度か下田まで行ったことがありますが、遠い、遠い。
歩くことが当たり前の時代とはいえ、ほんとうに昔の人は健脚だったんですね。
東京から下田まで数日で行って来いと言われてできる人なんて現代ではいないでしょう。



  

1854年3月26日午前2時 真っ暗な中、2人は行動を開始します。
激しい風雨をついてやっとの思いで軍艦ポーハタン号にたどり着きます。
ずぶ濡れヘトヘトの状態です。



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http://www.webkohbo.com/info3/shoin/shoin_shimoda....




アメリカへ渡航したい旨を通訳官のウィリアムズに必死で頼み込みますが、ペリーとしては
今その申し出を聞き入れるわけにはいかず、断られ、浜まで送り返されます。





やはり失敗に終わってしまいました。





どうですかね。

ここまで見てくると松陰という人は確かに頭が良く、行動力も飛躍するほどにあるのは確か
ですが、用意周到という言葉が一切当てはまらないように感じて仕方ありません。

決意するや行動に移す・・・という行動パターンが目立ちすぎるように思えてなりません。
言葉と情熱だけが先走ってばかりのような気がしますが、皆さんはこの点どう思われますか?

もとより松陰は既に命は捨ててすべての行動に出るのですが、例えば後に高杉晋作らが上海に
見聞に出かけていますが、そういった別の方法とかなかったんですかね?

失敗に終わり、死罪となっても後世に名を残すという松陰独特の若さゆえの美学のために
用意周到な準備というものがないがしろになっているように私には思えました。

いかに屈辱的開国というショッキングな出来事の直後とはいえ頭が熱し過ぎていたのでは
ないでしょうか?

それだけ純粋であったとも言えますが。




吉田松陰と金子重之助

PICT08901.jpg
http://www.geocities.jp/bane2161/yosidasyouin.htm

さて松陰。

密航失敗の直後、自ら下田奉行所に自首して出ています。





はじめ柿崎の名主のもとに自首して出た時、名主は面倒を恐れ、それとなく逃がそうと
しました。
松陰曰く「罪は罪である。男児は罪を犯して逃げ隠れするようなことがあってはならない」
といって奉行所へ連れていかせました。

これも松陰流の美学。





奉行所の尋問に対しても洗いざらい正直に答えています。

取調官が松陰のあまりの正直さにあわれを覚え、「そのようなことまで言うと、死罪はまぬがれ
ないぞ」とたしなめる程でした。

それに対して松陰はこう言っています。

「私は志を立てて以来、万死を覚悟することをもって自分の思念と行動の分としています。
いま死を恐れては私の半生は無に等しくなります」

これも松陰流の美学。






二人は江戸へ送られます。





伝馬町の獄に入れられた後、身柄を藩に移され9月23日江戸をたち、10月24日長州・萩に
戻って、侍階級が入る野山獄に収監されます。

金子重之助は百姓の身分の者が入る環境劣悪な岩倉獄に収監され、やがて病に苦しんだ
あげく病死してしまいます。





野山獄では囚人同士で互いの得意分野を教授し合ったりもしたようです。





やがて松陰は病気療養の名目で杉家に引き取られることになります。





ところで・・・
伝馬町の獄に入れられた松陰ですが死罪にならず藩お預けになっていますね。
ちょっと意外な判決ですね。
密航は国禁を破る大罪なのに。
下田奉行所の心象がよほど良かったのでしょうか?
そういえばペリーも二人の身を案じて、奉行所になるべく寛大な処置を頼んでいた
とのことです。
そういった事がが配慮されたんじゃないかな、と私は思うのですが。
どうでしょう?





ま、とにかく松陰は再び実家で罪人として暮らすことになり、ここに松陰による
松下村塾が始まるのです。




家族が優しく松陰を迎えたのは言うまでもありません。
本当に素敵な家族ですね。






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