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吉田松陰3大事件/脱藩事件 [吉田松陰3大事件]

《吉田松陰3大事件/脱藩事件》




1850年(嘉永3年)吉田松陰は九州遊学を終え帰国しますが、すぐさま江戸留学
を願い出ています。
松陰にはあまい藩の役人はこれを了承。
折よく参勤交代で江戸へ向かう藩主のお伴という名目で翌年江戸に向かいます。
松陰21歳。




江戸では数多くの学者のもとへ通いますが、とりわけ親しく接したのは房州の百姓
あがりの儒学者・鳥山新三郎(トリヤマシンザブロウ)で江戸・桶町河岸(おけちょうがし)で
蒼龍軒(そうりゅうけん)という私塾を開いている民間学者。




よほど気に入ったのでしょう、暇さえあると鍛冶橋(かじばし)にあるこの鳥山宅
に遊びに行き、彼の話を聞いていたようです。
のち松陰は江戸へ来るとこの鳥山卓を宿にしています。




他にも同藩で仲の良い来原良蔵(クリハラリョウゾウ)や、明倫館で松陰の講義を受けていた
桂小五郎なども鳥山塾の常連でした。
後年、獄中の松陰に義捐金(ぎえんきん)を贈ったために罰を受けています。
松陰のことがよほど可愛かったのでしょう。





さてもう一人大切な師との出会いがありました。
佐久間象山です。




佐久間象山は松代藩士のもともとは儒学者ですが、海防や洋式兵学にも精通し、オランダ語
をもマスターしていました。
当時、当代一の洋学者でした。
松陰は象山塾で多くの知識と知己を得ます。
象山は坂本龍馬の師としても有名ですね。



佐久間象山
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http://53922401.at.webry.info/201309/article_16.ht...





さて本題。




松陰は江戸で多くの友人を得ます。
とりわけ藩外の友人です。
中でも肥後熊本の宮部鼎三(ミヤベテイゾウ)と南部藩を脱藩している江幡五郎
(エバタゴロウ)と深い親交を結びます。
宮部鼎三とは既に九州遊学の折り知己になっています。
宮部鼎三は熊本藩において松陰と同じ立場の人間です。
江幡五郎は、藩内で藩主擁立(ようりつ)の騒動で、兄の春庵(シュンアン)が陰謀の
主である田鎖左膳(タグサルサゼン)という家老によって獄中で殺されていたため、
兄の敵を討つべく行動していた人物でした。





松陰はこの2人を強く尊敬しており、宮部鼎三から東北遊学の提案をされた時、
即座に喜び勇んで賛成しています。




宮部鼎三
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E9...
すでに房総半島から相模湾沿岸にかけて海防上の見地から視察をしており、同じような
見地から東北を見てみようということです。
また高名な学者も訪ねて勉強したい、とのことでした。




とにかくこの時代、学問をするということは一流の学者を訪ね歩いて教えを乞うこと
でした。
坂本龍馬も各地を旅して多くの知識を得ていますね。





さて江戸出発の日時は12月15日と決まりました。




松陰は藩役人に東北遊学の願い状を提出し難なく許されました。




夏が過ぎ、秋になり、やがて12月になった頃、松陰は重大なことを忘れていた
ことに気づきます。



過書手形」です。




過所手形とも書きます。





当時、旅行する場合には関所を通過するに際して手形が必要でした。
この手形のことを長州藩では「過書手形」といいました。




そのことを藩役人に確認を入れたところ、簡単な事務上の問題のはずが責任者の
間で大騒ぎになりました。




「過書手形」には藩主の押印が必要なのですが、国元で水害と干害があり、
その肝心の藩主は幕府から特別に許されてこの8月に国元に帰っていたのです。




藩主の印形をもらうための書類が江戸と国元を往復するだけで2ヶ月はかかります。
それでは2人の友人との約束が守れない・・・松陰は苦悶します。




江戸藩邸での最高責任者である佐世主殿(サセトノモ)は松陰を御用部屋に呼び出し、
旅立ちの延期をするよう言い渡します。
理由は要するに「事務上の手続きの未完」。
「過書手形」の交付がすぐにできない現状では藩として旅行を許可することは
出来ない、ということです。




松陰と佐世主殿との問答の様子と松陰を助けたい思いの来原良蔵と佐世主殿との
問答を作家・司馬遼太郎が『世に棲む日日』の中で記しています。
参考として一部を抜粋して引用します。





松陰「しかし殿様のお許しはすでにおりているのでございます。ただ過書手形一枚
   のことではございませぬか。その過書手形も、それを持たずに道中すると
   いう便法は、世上おこなわれていることであり、当藩にあっても先例は多う
   ございます」

佐世主殿「過書手形は大公儀(幕府)の御法である。もしそれを持たずにゆく藩士が
      あれば、殿さまの御法度になる」


※松陰にすれば愚にもつかぬ形式主義に思えました。
  松陰は生まれて初めて官僚がどういうものかを知ることになりました。



以下は友人来原良蔵と佐世主殿との問答の様子です。



来原良蔵「あれでは吉田が可哀相でございます」

佐世主殿「奇態なことをいう。わしは江戸留守居役として寅次郎(松陰のこと)の奥羽
     旅行を禁じているのではない。すでに許可した。ただ過書手形を持たずに
     ゆくのは不穏当だから、それがくだるまですこし待てというのだ。念のため
     にいうが、わしは待てといっているだけだぞ、この道理がわからぬか」

来原良蔵「しかし」
      「過書手形を持たずに藩士が旅をした例は、いままでに何例もあります」

佐世主殿「天下の法も、藩の規則も、過書手形を持たずに旅をしてはならぬということ
      になっている。そうでない例が幾百幾千あろうと、まちがったことは先例に
      ならぬ。法は守らねばならぬ」


来原良蔵「死法同然でも?」

佐世主殿「死法ではない。もし寅次郎が他藩領でゆきだおれになったらどうなる。
      たとえばその藩が、疑う。手形なしの他国人が、自分の藩の秘密をさぐりに
      きたものとして疑う。検察して長州藩士だとわかった場合どうであろう、
      殿さまへのご迷惑ははかり知れぬではないか」

来原良蔵「それは万に一つの場合でございましょう」

佐世主殿「法は万に一つの場合のためにあるのだ。来原良蔵は、法など要らぬというのか」

来原良蔵「決して」

佐世主殿「わかれば、席を立て」



※来原良蔵はここで松陰と友人2人の深い交情を説明して、そして言います。



来原良蔵「そのような事情なのです」
     「寅次郎は、友誼(ゆうぎ)をやぶることになります」

佐世主殿「なにか、まちがっとりゃせんか。延期せよというのは藩命である。
      宮部やら江幡やらのことは、私交上のことではないか。
      私がさきで、公はどうでもよいというのか」

来原良蔵「しかし、そこは御裁量によって」

佐世主殿「あまえてはいけない」
     「だいたい、吉田寅次郎なる者、わずかに学才があるため国もとの重臣たちが
      かれを可愛がりすぎている。かれは藩に対し、甘え根性ができている」

来原良蔵「これは心外なことを。私は寅次郎をよく知っております。
      かれは甘える男ではありません」

佐世主殿「それならば藩命にしたがうことだ。藩の規則というのはいかにくだらない
      とりきめでもそれを守らねば藩秩序が崩れる。このたび寅次郎に特例を
      ゆるせばそれが先例になり、過書手形の法規はなきにひとしくなる。
      私は藩秩序の江戸における責任者である。
      秩序をこわすようなことを、この江戸御留守居役佐世主殿ができると
      おもうか。
      帰室して寅次郎にそう申せ」


以上、抜粋でした。




来原良蔵から佐世主殿の意見を聞いた松陰は佐世主殿の秩序論にいたく感心するとともに
佐世主殿の志の堅牢さにふかく感じ入ります。




松陰にせよ秩序論者であり秩序美を賛美する人間です。
その自分が秩序に対して困惑している。
あまりの形式主義に往生してしまっている。




そして松陰はこう考え始めます。




「原理において正しければ秩序は無視してもかまわない。
大いなる義の前には一身の安全などはけしつぶのようなものだ。」




この場合の大いなる義とは、仲間との約束を守る、ということです。
松陰に言わせれば、「その程度の義さえおこなえない人間になにができるか」




松陰は脱藩を決意します。




さて皆さんはこの事をどう思われますでしょうか?




どうみても飛躍し過ぎだよ・・・と私なんか思ってしまうのですが。
ありていに言えば宮部鼎三と江幡五郎に事情を話し、出発の予定を変更する
相談とかできないもんでしょうか?




なんて考えたりしてしまいますが、松陰にすれば武士の約束であったのですね。




宝物のように大事にしている2人の友人に落胆させるのはかなり辛いことに
なりますし。




武士の情義として今更約束は決して破れない、と追い詰められたのでしょう。




脱藩は自分一人が罪を負うのではなく一族にも罪が及びます。

それを承知で断を下した理由をこう言っています。




「人間の本義のためである。人間の本義とは一諾(いちだく)をまもることだ。
 自分は他藩の者に承諾をした、約束をした。もしそれをやぶれば長州武士は
 惰弱であるというそしりをまねくであろう。
 もし長州武士の声価をおとすようなことがあれば、国家(藩と家)に対する
 罪はこれほど大きいことはない」





松陰という人は常にこうであったのですね。
やっぱりどこかかなり違います。




藩命でもなく、あくまで私ごとの旅行に過ぎないのですが、一度約束した以上は
脱藩してでもその約束は守る、というのです。




いかなる場合でもおのれ一個のことを考えない、という思考習慣を玉木文之進に
よって植え付けられていたゆえの判断なのでしょうか。
この点でいえば矛盾しますが。




玉木文之進により受けた公人教育をギリギリ凌駕してしまった瞬間、個人としての
人間の本義が最終回答として優先したのでしょうか。




あれほどの頭脳を持った松陰が出した結論は一身一族の安全ではなく「一諾を守る」
ことによって長州武士の声価を守り、友情を守ることになりました。




表面上はたわいない問題に見えますが、「武士」の世界での問題となるとここまで 切羽詰まるきわどい問題になるんですね。




現代では会社でヘマをすると「クビになる」と言いますが、昔は本当に首が胴を
離れたんです。




そういうシビアな時代に生きていた人の持つ覚悟というのは重さが違うんだと思います。




単純に若さゆえの事と割り切れるものではないのかも知れないなー、とも思います。


《一諾を守る》なんて人、身近にいますか?


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