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吉田松陰と愛弟子たち2 《久坂玄瑞》 [吉田松陰と愛弟子たち]

吉田松陰と愛弟子たち2 《久坂玄瑞》





吉田松陰の愛弟子は数多くいますが、とりわけ久坂玄瑞は松陰が最も気に入り、
最も期待をかけた人物でした。
玄瑞は高杉晋作とともに松陰門下の双璧といわれ、また四天王の筆頭とも
言われていました。
松陰はその人柄と才を愛し、末の妹の文(フミ)と娶せて(めあわせて)います。



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http://www.takasugi-shinsaku.com/taka202.html





1840年(天保11年)藩医・久坂良廸(ヨシミチ)の次男として生まれています。
幼名は義助(ギスケ)。
松陰より10才下になりますね。




久坂家は代々長州藩の御典医に家柄で家禄は25石。
幼くして両親を亡くしています。
兄の玄機(ゲンキ)は諸人が目を見張る飛び抜けた秀才で、はじめ家学の
漢方医学を学びますが、後に蘭医学も学びます。特に語学に優れていた
ということです。
藩きっての蘭医でした。





この兄の玄機ですが、洋学を学びながらも強烈な攘夷論者で、欧州列強の
帝国主義を論じ、国防の急務たることを力説していた人でした。
松陰とは直接相まみえたことはありません。





しかしこの兄の存在が大きく玄瑞に影響を与えたことは間違いないでしょう。





松陰が下田で捕えられた頃ですから1854年春でしょうか、藩主の命により
海防対策書を書き上げるため二昼夜不眠で書き続け、この疲労がたたり、
病気になり急死してしまいます。





玄瑞14才の元服早々で家を継ぐことになります。
少年の身ではありますが藩医の家を継ぐため頭を剃り、名を義助から玄瑞に
変えることになります。






兄も秀才でしたが弟の玄瑞も幼少時より秀才の誉高い少年でした。
はじめ城下の私塾に通った後、藩校・明倫館に学んでいましたが
医学を学ぶため藩の医学所に入ります。





しかし玄瑞の本当の志は医者になることではなくて「天下を救う」ことに
ありました。亡き兄の意思を継ぎたい。
これが玄瑞の心だったのです。





後に松下村塾に入り、松陰の薫陶(くんとう)を受け、頭角を現わします。





松陰同様、玄瑞は17才の頃、見聞を広めるため九州遊学の旅に出ています。
そして熊本を訪れた際、宮部鼎三(ミヤベテイゾウ)と出会います。
宮部鼎三は松陰が絶対の信頼と友情を持つ無二の親友でした。
宮部鼎三から松陰が傑物(けつぶつ)であることを聞かされた玄瑞は松陰に
関心を持つようになります。






長州に戻った玄瑞は直ぐには松陰のもとを訪れはしませんでした。
松陰の器を確かめるべく時勢を論ずる挑戦的な手紙を何度も送り付けます。
そして数度の手紙のやり取りを通じてしだいに松陰という人物に傾倒して
いくのでした。
入門後まもなく松陰から「防長年少第一流の人物にして、固より(もとより)
亦(また)天下の英才」と評されています。






松陰はこの血気盛んな若者をすっかり気に入り、また、玄瑞が幼くして家族
を失い、天涯孤独の身であることを不憫に思い、末妹の文と結婚させようと
強く勧めます。






1857年(安政4年)12月5日 久坂玄瑞と杉文は結婚します。
玄瑞18才、文15才の時でした。





当時はこの年齢はもう一人前の年齢なんですね。
現代とは大違いです。

誰も彼もが早くからしっかりしていたのです。
また、しっかりしてないと生きていけない時代だったんですね、昔は。

仕事するにせよ、学問するにせよシビアだったんです。
間違っても引きこもりだとか、ニートなんてありえない時代です。

社会背景の違いはありますがそれにしても現代は甘ちゃんが多いように
思えてなりません。

もっとしっかりしなくってはいけないな、と自分自身も思いますが。[あせあせ(飛び散る汗)]





さて二人の新婚生活はというと新居で甘い生活を送ったのかな、と現代人
なら思ってしまいますよね。

違うんです。

玄瑞は杉家に同居するんですよ。あの手狭な杉家にです。
二人っきりの甘い新婚生活なんてものはこの江戸時代にあっては稀なもの
だったことでしょう。





玄瑞は翌年の2月には江戸に遊学することになり家を留守にします。
日米修好通商条約が調印される数か月前ですね。
世を上げて攘夷、攘夷の叫び声が溢れている時げす。
以後玄瑞は江戸と京で国事に奔走する日々を送ります。






1859年(安政6年)2月 玄瑞は長州・萩に一度戻ってきます。





この頃、松陰は老中・間部詮勝(マナベアキカツ)要撃を企て塾生たちに
協力を説いています。

しかしこの提案に乗ってくる塾生は一人もおりません。

あまりに無謀であまりに危険極まりない暴挙でしたから塾生たちは一丸と
なって諌止(かんし)します。

師の身の危険も考慮したことでしょう。
ここで玄瑞もその襲撃計画に反対します。





一番可愛がり、一番目をかけてきた玄瑞の反対に松陰には珍しく激昂し、
玄瑞に絶交を言い渡してしまいます。

玄瑞はまもなく明倫館の西洋學所(博習堂)の学生として寄宿舎生活を
送ります。

師を守るためとはいえ、松陰から絶交を言い渡された玄瑞の心は悲しみに
溢れたことでしょう。

尊敬する師からの絶交宣言は親を失った子供のように辛く、淋しく、悲しい
ものだったに違いありません。




松陰が暴発するのを防ぎたい執政・周布政之助(スフマサノスケ)は松陰を
野山獄に収監します。
こうすることで周布は松陰の身を守りたかったのです。





そうこうする内、幕府より松陰の江戸召喚命令が長州藩に下ります。




松陰が江戸へ向かう直前、玄瑞は松陰から許され師弟関係が回復します。
師と向き合い、許された喜びは束の間のこと。
死出の旅となるやも知れぬ師を見送らねばなりません。
辛い見送りとなったことは想像に難くありません。






安政の大獄に連座して師・松陰が処刑されると玄瑞はその遺志を継ぐ決意をします。





















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